イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

好きな子がめがねを忘れた:第11話『好きな子と文化祭の日に』感想

 文化祭でも通常運転、高鳴る鼓動と近づくかんばせ
 少しヘンテコな僕たちの、ドキドキ青春絵日記、好きめがアニメ第11話である。

 恋を自覚した三重さんがグイグイ前に出る流れが少し収まって、小村くんの過剰な内言が画面に漏れ出してくる今までのスタイルが戻ってきた感じの今回。
 思いの外彼が虚無的な人間である……と、自分のことを奇妙に卑下している事が強調される回だった。
 Go Handsのギトついた過剰作画に引っ張られて、なにか異常なことが異常な場所で起きているような感じを受けるこの作品だが、描かれている事象はとても普遍的かつじっくりしたモンで、小さくありふれた恋が育っては頭を振って正気を取り戻し、一歩戻っては何かが積み重なる。
 そんな青春の歩みは特別な恋を内包しつつ、あらゆる人に共通の自意識変遷を作品の真ん中に据えて、中学三年生の生活を切り取っていく。
 文化祭という、いかにも特別なイベントが生むだろう炸裂をスルリと回避して、小村くんは確かに生まれつつある変化、半歩踏み出せば手に入る憧れの前でブレーキを踏んで、歩みを止めてしまう。

 小さな事を気にかけて、過剰に興奮したキモくも誠実な自己像を矮小化し、目の前の素敵な女の子に”こんな自分”はけして釣り合わないのだと、何かを諦めてしまう姿勢。
 それは脳髄をパンパンに満たす興奮のニトロが、背中を突き動かしてなんもかんもぶっ壊す方向に自分が加速しないよう、三重さんを前にして優しく紳士的であるための自省だ。
 あんだけ温度高い妄想を頭の中に詰め込んで、なお甘酸っぱい微細な距離感を維持できている時点で小村くんは評価に値するのに、そういう良さを彼は自覚しない。
 自己評価はいつでも辛くて、何にもないつまらないやつで、だからこそ三重さんに惹かれることで、めがねを忘れた彼女の面倒を見ることで、自分の中に誇らしい何かが生まれもする。
 凄くピュアで真っ直ぐな行ったり来たりの中に、こういう微かな自我の摩擦熱が見え隠れするのが、このお話の好きなところだったりする。

 

 小村くんが必死にブレーキを踏む中、三重さんはあいも変わらずど天然の自然体であり、小村くんの顔が見える特別な間合いを維持し、その顔を見つめ続ける。
 今回少し彼女の家庭事情が見えてきて、ぼんやり抜けたところがある愛娘をご家族がどんだけ心配しているのか解ったりもしたが、ココアが飲めたの飲めないので一喜一憂する幼さから、三重さんは少し踏み出す。
 それは小村くんと一緒にいる時間を少し引き伸ばすための、自分なりの逸脱だ。
 あんだけぼんやりしてたらご家族もそらー心配だろう、可愛い可愛い愛娘が少しその保護を離れて、自分の望みに向かって危うくフラつきながら、ちょっと進む一歩目を導いているのは、自分を特別に思っているだろう男の子を、特別に思う暖かな気持ちである。
 三重さんの成長を促す触媒として、小村くんとの触れ合いがちいさくて大きな仕事を果たしているのは、このアニメのギラついた装いに反して確かな、青春物語としての爽やかな土台だろう。

 三重さんの変化はとても穏やかで健やかなので、同じ季節を一緒に歩いている小村くんには見えにくい。
 だからそういうモノを生み出している自分も、同じようにちょっとずつ変化している自分も自分自身では感じにくく、彼の中の小村楓は”何もなくて、面白くないやつ”のままだ。
 しかしそういう変化はとても静かに降り積もっているものであり、三重さんが好きな自分とちゃんと向き合うときが、いつか来るのだろう。
 それがアニメの範疇で描かれるのか、ちょっとずつの成長を重ねた先に揺れているものなのかは、まだ解らない。
 しかしまぁ、どちらにせよこのアニメで描いてきたものを裏切らず、一旦の幕を閉じてくれたら良いかなと思える回だった。

 

 永遠に繰り返すように思える日常にも確かな変化があって、それは何かがいつか終わってしまうことを、段々と子どもたちも見つめていく。
 ただそれは今ではなく、極めて幸せなこのまどろみは、まだまだ続いていく。
 そういう幸せな季節の質感を、甘酸っぱい恋に交えて教えてくれたお話もそろそろ一段落ですが、さて次回は何を描くのか。
 楽しみですね。