イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない”感想

 思春期の複雑さを不可思議な現象に重ねて描く、青春ブタ野郎シリーズ高校編ラストを飾る、”青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない”を見てきました。
 ネタバレに成らない範囲で感想を書くと、大変良かったです。
 アニメシリーズに通底するダウナーで真摯で、でも人生の笑える場面を見逃さない視点は最後までブレることなく映画を貫通していたし、人生の迷子となってなお進む人達の姿に、優しく寄り添う画作りがテーマと良く噛み合っていました。
 10代であること、生きるということに足をもつれさせた色んな人たちの側に立って、自身の辛さを表に出さないようにしながら必死に走ってきた梓川咲太が、思春期症候群の当事者となり、満たされない自分を語る特権、弱くなり涙する権利を最後のヒロインとして与えられ、大人になろうとしている傷だらけの子どもとしての素顔を、桜島麻衣に照らされて最後に教えてくれる。
 彼らの高校時代を終わらせる映画がそういうお話になったのは、必死に頑張ってきた彼らが好きな僕としては、とても嬉しいことでした。
 シリーズの集大成として、苦しい日々を必死に頑張ってきた家族の到達点として、とても良い映画です。
 強くオススメです。

 

 

 

 つーわけで、青ブタシリーズ一つのエンドマークである。
 大学編に喜ばしく続いていくのは大変ありがたいが、花楓を襲った思春期症候群を契機に梓川家が崩壊し、それでもなお人生をダウナーに生き延びてきた一人の少年の物語としては、ここにたどり着くしかないという結末にしっかり、作品が到達してくれた手応えがある。
 前作”青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない”を筆頭に、良き兄、良き恋人、良き友人として思春期症候群に翻弄されるヒロインたちを必死に助け、青春の荒波に揺れる心がどこにたどり着くべきなのか、自分なり必死に向き合ってきた咲太。
 彼の痛みや弱さや悲しみを保留し、作品を解決に導く主人公/ヒーローとすることで成り立っていた作品は、最後の最後で彼を一人の被害者に、傷だらけの子どもに、頑張るしかなかった弱い存在に戻す。
 彼がクールでダウナーな態度の奥に、燃え盛る情と傷つきやすい感性を宿した、愛するべき10代であることは幾度も……例えば”おでかけシスター”で妹を翻弄する運命を前に拳を握りしめた時の表情などに、しっかりと切り取られてきている。
 物語を引っ張り、可哀想なヒロインたちを守る装置では終わらない、弱く脆く愛しい人間らしさが梓川咲太にあったからこそ僕はこのアニメを好きになったし、お話が一つ幕を閉じるこのタイミングで、彼がどんだけ赤い血を魂から流していたのか、それがどこに繋がってどこに往くのか、ちゃんと向き合ってくれたのはとても嬉しい。

 咲太がヒロインとなる今作、彼を救済するヒーローは(僕らの期待通り)桜島麻衣であり、咲太に見つけてもらったことで仕事に復帰し、愛を手に入れ、家族を許せるようになった……大人になった彼女は、愛する恋人の手をけして離すことはない。
 元々誰とくっついたの離れたの、いかにもラブコメ的な恋の鞘当てを作品のメインエンジンにはせず、桜島麻衣圧勝(というか戦場自体が成立していない)で関係を構築してきた物語は、恋愛の先にある婚礼、家族として新たに縁を紡ぎなおす将来を、自然と視野に入れる。
 麻衣さんにとっても咲太にとっても、婚姻届は小粋なじゃれ合いを演じるための発火剤であると同時に、ひどく身近で切実な未来への切符であり、そこに名前を書くことは不定形のおまじないであると同時に、とても現実的な確認行為だ。
 二人が恋人として、その先にある家族として共に進んでいく同意は第1エピソードの時点で既になされていて、麻衣さんが仕事に復帰してスキャンダルに揉まれたり、世間に対して堂々交際宣言を果たしたり、向き合うのが難しい母親と対峙する時隣に立ってもらったり、義妹となる花楓の人生にそっと手を添えたここまでの物語で、ガッチリと補強されている。
 麻衣さんと”そういうこと”になる未来は咲太にとってどうあってもつかみ取りたい切実さと、当然そうなるという確信と、そうなることで救われる希望の入り混じった光であり、それが世界全てに忘れ去られかけた咲太を麻衣さんが思い出し、僕らが見つけてあげてほしいと心から願った一人ぼっちの少年を、寒い冬の日に抱きしめる理由になっていく。
 桜島麻衣は咲太(と僕)が信じたとおり、自分たちが積み上げてきた関係性とその証を武器にして、残酷な世界が理不尽に流し込む”空気”にあらがって、泣きたいけど泣けない少年のもとに一日早くたどり着き、生きていて良いのだと、立派に頑張ったのだと、かけてほしい言葉を届けてくれる。
 そういう存在に彼女を導いたのは恋人である咲太であるし、彼が世界の縁でギリギリ抱きとめられるのは、彼自身が桜島麻衣のヒーローとして透明な空気に抵抗し、愛を伝えた恩返しといえる。

 ここら辺の呼応関係を構造化して、咲太は麻衣さんと同じ思春期症候群……他者(特に家族)からの認知からはみ出した、透明な存在になっていく苦悩に襲われる。
 第1エピソードで描かれた”空気”の暴力性、それを打ち破る愛の強さを、ヒーロー/ヒロインの立場を変えて再演する今回の映画は、スタートに戻るからこそここまでの道のりを確かめ、新たなゴールへたどり着く”行きて帰りし物語”な構造を強く宿していて、読後感が良い。
 作中咲太がいうように、何も哀しいことが起きなかった都合が良すぎる世界に思春期症候群はなく、それを乗り越えた少女たちの奮戦も、それを必死に手助けした少年の頑張りもない。
 あそこで自分が何もしなかったかのように、『みんなが自分で乗り越えたんだ。失くしちゃいけない』と言えてしまえる咲太の高潔と献身が、やっぱり僕は大好きなわけだが、この高校編終章は青ブタという物語がどこから始まり、何を積み上げ、どこに至ったかをしっかり見つめる。
 梓川咲太という少年が自分の傷を必死に隠しながら、困っている女の子たちの人生に間近に寄り添って、その過程で生まれた縁や蘇った絆を頼りに、壊れてしまったものや諦めてしまったものを取り戻して、梓川家を再生しそこに桜島麻衣を加えていく物語。
 それは人生の理不尽や青春の危うさをを、動作原理の分からない思春期症候群としてSF的に駆動させ描写されながら、自分たちの人生を必死に進んでいる子ども達の辛さにも輝きにも寄り添った、愛されるべき物語だ。
 それを作品自体が回顧し、回帰し、突破し、到達する映画になっているのが、今回とても良い。

 

 梓川咲太が思春期症候群の被害者となることで、彼が特権的なヒロイン保護者であり、作中唯一問題を解決できる主人公である間は見えにくかった(しかし確かに、物語に滲み出していた)彼の主観は、非常に深くえぐられていく。
 それは明暗半ばする不安定な場所で、都合の良い光ばかりでも、沈み込むような暗がりだけでも構成されていない。
 彼が人生の迷子だと判明する今回、藤沢から鎌倉、横浜界隈を徒歩で歩き、電車に揺られて流れていく場面は多い。
 母との向き合い方に悩む麻衣さんに。隣り合って進む道。
 花楓と並んで、母との再開を果たすまでの雨げしき。
 世界から忘れ去られて、桜島麻衣の形をした導き手に出会う七里ヶ浜
 何も哀しいことが起きない、ここまでの物語全てを否定する別世界線の陰りのなさ。
 何もかもに置き去りにされて、明かりを消していく学校に立ちすくむ時の闇。
 咲太の迷い路には色んな明暗が、このアニメらしいあまり強い自己主張をしない……しかし確かな精神性を宿した筆致で焼き付けられて、ゆらゆら揺らめきながら咲太が何を感じているのか、画面に焼き付けていく。

 花楓と母の待つ場所へ進むまでの歩みは不安を反射してひどく暗く、そこをくぐり抜けてたどり着いた場所には、確かな光がある。
 思春期症候群の犠牲になって、傷ついて抱きしめられて座った自室で、麻衣さんを隣にようやく自分が何に傷ついていたのか、どう生きなければいけなかったのか吐露する時、その闇は深い。
 だがそういう暗く深いもの……軽妙でクールな態度を鎧にしてどうにか自分を守り、それが世界を支配しないよう押し込めていたものと、見て見ぬふりをするしかなかった母と奇怪な事件を通じて向き合い直した後に、朝は訪れ闇は晴れていく。
 麻衣さんが自分の心を受け止めてくれたからこそ、ようやく直視できた母の辛さと頑張りを己に引き受けた後に、思春期症候群が払われ母に見つけ直してもらう時、病室を満たしていた微かな陰りに光が差し込み、家族は抱き合ってないて、真実もう一度あるき直す。
 梓川咲太が包囲され必死に戦ってきた場所には、孤独で冷たい闇とそれを越えて何かを照らしてくれる光が同居していて、どちらか片方だけがそこに在るわけではない。
 母に見られていない自分に傷つき、そこのことで母を見ていなかった残酷な自分を見つけて、罰するように世界から忘れ去られてなお、光はまだそこにあって、自分に追いつき抱きしめてくれる。
 咲太にとっての希望と救済を体現する桜島麻衣が、そういう存在でいられるのは、咲太が同じく透明になってしまった麻衣さんを必死に探して、見つけて、抱きしめてくれからだだ。
 彼らが恋人になって、お互いが好きだから耐えられる人生の難しさに向き合い、一緒に大人になっていったからだ。
 麻衣さんはその当事者として、咲太のパートナーとして、彼が必死に頑張って大人になるしかなかったこと、妹と家の残骸を背負う重さがなんでもないように、軽薄でクールな男の子であろうとしたこと、辛いながらも触れ合う誰かに優しかったことを、『大人になった』と肯定する。
 そうあってくれたことで救われた彼女が、咲太自身見失ってしまっている彼の尊さを見つけて、届けるヒーローになる展開には、やはり分厚い必然性がある。

 

 親との複雑な関係に自分なりの筋道を立て、理解と受容に近づいていく。
 咲太が思春期症候群に翻弄されながら進む満ちは、冒頭ありふれた恋人たちの日常の中に、桜島麻衣を主役として既に描かれている。
 まだ許せない母をそれでも認め、かつての自分に似た少女からの憧れを心地よく受け止め、自分とは違う誰かの心を慮って、どうするべきか考えられる存在。
 つまりは”大人”になった自分に当惑しつつ、麻衣さんは母と直面する時に咲太の指を取り、不確かを定位して立ち向かう。
 彼女がそうしたいと思う唯一の存在が梓川咲太であり、そう思わせるだけの戦いを今少年が果たしてきたことを、僕らは知っているから、イチャイチャするのも許容範囲というか、『存分に幸せになってくれ……』という気持ちである。
 麻衣さんが母と向き合える自分になれた起点は、元有名人として”空気”に見捨てられ殺されかけていた過去を、咲太がおせっかいして見つけて乗り越え、恋人になった瞬間にある。

 この物語最初の事件として、咲太が手を差し伸べ麻衣さんが自分で乗り越えた場所から、仕事に復帰し家族との関係を整理し、自分がどれだけ梓川咲太を愛しているのか、そのシリアスな質感に向き合えるだけの成長を果たしているのか、確かめながら彼女は進んできた。
 他ならぬ咲太が後押しすることで、麻衣さんは女優という仕事に忙しく励む”大人”になったわけだが、その成熟を大事な人のために仕事に背中を向けて、一日早く恋人を抱きしめに行くことで一歩深めたのも、また良かったと思う。
 第1エピソードでのひどく不安定で脆い麻衣さんでは、たどり着けなかった場所に咲太が彼女を引っ張っていったからこそ、かつて自分を翻弄した仕事とちゃんと向き合い、世論を動かして翔子ちゃんを死の運命から救うような”大人”になった。
 その立派な横顔がまだ年相応に揺れていて、だからこそ身近に自分を支えてくれる特別な誰かを求めているのだと、冒頭の親子の対面は描いている。
 ここに立ち位置を変え、犠牲者でありヒロインとして咲太を迷い込ませて、彼なりの母への許し、家族の再生へたどり着くまでの物語。
 それがこの映画だ。
 何気ない日常の一風景として描かれる麻衣さんの親子融和の景色が、思春期症候群が理不尽に暴れる非日常を通して、最後の病室での梓川家の再生への予言として、入れ子構造で冒頭に配置されているのは、やっぱり好きだ。
 一つの幕が下りるエピソードだからこそふりだしに戻る構図が、麻衣さんの思春期症候群を再演するシリーズ全体への視座と、最初のやり取りで課題と解決……悩みと希望を暗示する映画の作り、両方で切り取られてる所が良い。

 複雑な親子関係、一回ぶっ壊れちまった家庭、消えてしまいそうな自分。
 咲太と麻衣さんは似通っていて個別に異なる、人生の難事を共有し、共闘し、ガチで死に別れたりしながらお互いを支えて前に進んできた。
 そういう二人が高校生カップルには似つかわしくない、人生と人間の深いところまで支え合うパートナーシップを構築しているのは、彼らの物語を見てきた立場からすると納得がある。
 ”おでかけシスター”で見せた、義妹となる少女との穏やかで深い結び付きからして腰の浮いた所が全く無いわけだが、人間が人生を前に進んでいく当然の成り行きとしてキスをし、抱き合い、結婚し、子どもが出来るという事実を、二人は軽妙ながら極めて真剣に受け止めてきた。
 その帰結として婚姻届のお守りがあり、『いつか、家族になろう』がある。
 言葉で軽妙にじゃれ合う二人の会話が印象的だからこそ、世界に殺されかけ深く傷ついた咲太を取り戻す時、非常にシンプルで短い、だからこそ力強い約束を麻衣さんが差し出す描写は、心に響く。
 人間が消えちまうか生き延びるか、そういう土壇場で何を言うべきか、何を言えるのか、明るく楽しい日々の中で真摯に考えてきた人だからこそああいう抱きしめ方をするし、そうさせる人間に桜島麻衣を戻したのは、やはり梓川咲太である。

 親に忘れられ世界に見捨てられ、たった一人寄る辺なく暗闇にさまよう、人生迷子。
 今回描かれる咲太の姿は、ここまで彼がやってきたこと、苦しんできたことを思えばあってはならない苛みであり、彼自身が苦痛に慣れてしまっているのもあって咲太一人では当然の報いと肯定してしまいそうなものを、僕は誰かに否定してほしかった。
 お前は何も間違ってなくて、こんなに苦しむいわれなんてない。
 頑張って、頑張ったから苦しくて、でも諦めずに妹の世話を焼き日々を生き延び、苦しんでる女の子たちに親切にしてきた。
 誰よりも偉い。
 そう言って抱きしめてあげたかったが、三次元に縛られた僕には出来ないことで……しかし、麻衣さんはやってくれた。
 そうするしかない必然と、そうしたいところから願う繋がりに導かれて、かつて自分を救ってくれたヒーローが消えかけているところに、間に合って抱きしめられた。
 とても苦しかったと、傷ついてきたのだと本心を絞り出し、受け止め新たに進み出せる拠り所に、期待通りなってくれた。
 ありがたい限りだ。

 

 ”おでかけシスター”でも咲太兄貴は極めて立派で、かえでから受け継いだ人生を必死に戦う花楓の苦闘に、最高のお兄ちゃんとして寄り添い続けてきた。
 その輝きは大変に眩しいが、しかしだからこそ大事なものを目がくらんで見落としかねない。
 彼もまた家族を壊された被害者であり、母を求めてを伸ばしている幼子であり、救済するヒーローではなく痛ましいヒロインなのだという事実を、この作品は見てみないふりをすることで走ってきた部分がある。
 桜島麻衣という文句なしの”大人”をヒーローにすることで、最後の最後で語りそこねた部分に深く潜り、自身子どもでありながら壊れてしまった家の中で、同じくぶっ壊れた妹を守るべく大人のふりを背負った少年を、泣きじゃくる子どもに戻してあげることが、この映画では出来た。
 そうすることでしか真実、一回ぶっ壊れた梓川家は再生に向けて進み直すことは出来ないし、愛されたいと強く願いしかし母は自分を見てくれていないと、それが辛くて母をなかったコトにしたと、苦悩する少年の本心は暴かれない。
 自分の醜さも危うさも、総身で受け止めてくれる誰かがいてくれるありがたさに咲太は救われるわけだが、その位置に自分を押し下げた麻衣さんに、見つけてもらえるありがたさ、抱きしめてもらえる嬉しさを教えたのは、一体誰なのか。
 泣きじゃくる子どもでしかない自分、消えてしまいたい気持ちと見つけてほしい心が同居する自分に、向き合ってくれる特別さを差し出したのは誰か。
 それを、もう一度問い直して答えきり、終わっていく映画である。

 妹を傷つける毒ガスを取り込む窓だと、一度は投げ捨てた携帯電話をもう咲太は遠ざけず、そこからとても大事なものが幾度も届くことで、彼はギリギリ危うい戦いを生き延びられもする。
 引きこもりの妹二人きり、閉ざした部屋のなか必死に生きてきた彼の人生は、誰にも見つけられないバニーガールのために愛を叫んで、恋人として家に引き入れた時から、大きく変わった。
 窓を開け、言葉と光を自分の内側に取り入れていくための勇気と強さを、どう手に入れていくかを幾度か書いた物語がどこにたどり着いたのか、携帯電話から届くものを自分を傷つける凶器ではなく、勇気づける手助けにしている今の咲太の描写は良く示している。
 それと同じ象徴性でもって、家族の新たな可能性を開き、あるいは見て見ぬふりをしていた苦しみや痛ましさに向き合うための”鍵”が印象的だったのも、面白いところだ。
 父に手渡された鍵は母が何を見ていて、何に傷つけられて自分がどこにいるのか/いないかを暴く。
 ずっと手にすることが出来なかったもので世界を拓くことで、咲太は傷つきながら学び、最後は鍵がかかっていない病室を、妹の存在を頼りに拓いて、母と出会い直す事が出来る。
 そこに至るまでの旅路を、麻衣さんからのコールを受け取る/麻衣さんへの思いを伝える携帯電話は支えてくれていて、しかしそれは、一度彼が生き延びるために投げ捨てたものでもある。
 そういう打ち捨てられたものをもう一度手にとって、取れるだけの自分に成って進んでいくことの意味を、描ききってくれた映画であろう。

 

 咲太が子どもでしかない事実は、抑圧されつつも無視されていたわけではなく、アニメの中に幾度も滲む。
 しかしそこに向き合ってしまえば主役は牽引力を失い、ヒロインを救済する特別な存在から、助けを求める寄る辺ない誰かになってしまう。
 なっていいのだと、作品とキャラクターが言える段階まで続いたからこそ、この映画はそういう場所に踏み込むお話になったのだろう。
 それは自分たちが積み上げた、都合の悪い理不尽や痛みに満ちた青春を、一個一個一人一人不思議に向き合っていく物語が、成し遂げた足場であり高みだ。
 咲太が主役として頑張って、色んな人の思春期症候群に立ち向かってきたからこそ、咲太自身の思春期症候群を、母への愛と愛ゆえの苦しみを、作品の真ん中に据えられた。
 彼らの高校生時代を終えるにあたって、それを題材に選ぶしかなかった。
 そういう真摯さでラストエピソード、何を描くか選び描ききったのは、とても嬉しく偉いことだと思う。

 愛することの痛みと、それが壊れることの怖さに向き合ったことで、咲太はより”大人”に……強くて優しい人になっていくだろう。
 少年がそういう存在になっていく時、恋と愛はとても大きな仕事をするのだと、桜島麻衣の奮戦は豊かに語ってもいる。
 ヒロインレースに背を向けて、たった一人への誠実な愛がどう深まっていくのか、人生の厄介な部分に食い込んでいくのかを追いかけてきた物語だから、語れる愛の成熟過程。
 その一つの到達点が描かれているのも、ラブコメディでもあったこのお話一つの幕引きとして、とても良かった。
 咲太が恋人に選ばなかった女の子たちも、そうならなかったからこそ豊かで大事な繋がりを保って、思春期症候群を超えた先の未来に自分の足で進んでいる。
 双葉を中核に、各ヒロインの今が幸せにスケッチされていたのも、また良かった。
 へし折れそうな人生を力強く支え、より高く掲げ直せるほどの本物の愛が、どんな幸せを生み出していけるのか。
 その手触りが、いかにもラノベっぽい軽妙な心地よさを伴って幾度か、梓川咲太最後の青春疾走を彩っていたのが、このアニメの良いところを再確認する筆致だった。
 

 

 というわけで、梓川咲太と桜島麻衣の高校生活がどんなものであったか、最後の最後に描ききってくれる、とてもいい映画でした。
 俺は必死に頑張りつつも優しく強がって、色んな人を大事にしてくれている梓川咲太がとても好きで、だから彼の秘されている子どもっぽさ、弱さと脆さを最後に話しのど真ん中、堂々据えてくれたのは嬉しい。
 彼が主人公であるからこそ隠さなければいけなかったものが、何より大事なのだから全部暴き受け止めようと、麻衣さんが強く優しく手を差し伸べてくれたのも良かった。
 好きになれたキャラクターが、やって欲しいと思える物語を彼らなりの歩調で走り抜けて、だからこそたどり着ける未来へと、手を携えて進んでいく。
 そういうお話を見届けられるのは、やっぱり嬉しくありがたいことです。
 大変面白かったです、ありがとう!