イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”窓ぎわのトットちゃん”感想

 言わずと知れたギネス記録級の超ベストセラー、黒柳徹子の自伝を八鍬新之介監督とシンエイ動画がアニメ化した映画を見てきたので、感想を書きます。
 美しい色彩と筆致で瑞々しく描かれた、トットちゃんが見る想像力に溢れた世界。
 その自由奔放なエネルギーを、大きく広げた両手で受け止めてくれる人々の頼もしい姿。
 小さな背丈を必死に伸ばし、懸命に幼き日を走り抜けていく子どもらの命の火花。
 その美しい瞬きを、静かに飲み込んでいく戦争の影。
 幸福と不穏に揺れ動く世界に、それでも満ちている音楽。
 あらゆる場所に驚異的なこだわりと作り込みが宿り、その全てが『トットちゃんが見た世界』のみで映画を構成する、ある意味偏執的ですらある一人称的映画の傑作として、素晴らしい仕上がりでした。
 フリースクールや障害者教育、戦争と全体主義など、執筆当時よりもむしろ同時代性を孕んだ要素が多くあり、今描かれ、見られることに大きな意味があるアニメであると思います。
 友人の激賞に背中を押され、遅ればせながらの視聴を果たした自分が言うのも口幅ったいですが、是非劇場で見届けて欲しい映画です。
 映画館で見て凄く良かったし、面白かったし、心を動かされました。
 強く強く、オススメです。

 

 

 

 というわけで2500万部発行のスーパーベストセラーが、令和の時代にアニメとしてリバイバルである。
 ”児童”とガチンコで向き合い続けてきたスタッフと制作会社が作るとあって、アニメ全体が非常に野心的な……しかし終わってみればこれ以外に道はないような表現手段を選択し、どうにか小学一年生のトットちゃんが見ている世界を観客席に重ねようと、徹底して一人称的に組み立てられた野心作である。
 無論画面の端々に切り取られたものは含意豊かで、幼いトットちゃんが見落としてしまうもの、理解できないモノが世界の中に確かにあるのだと静かに告げては来るのだが、劇映画としては不親切なほどに具体的な説明を省き、トットちゃんが確かに身を置いたあの頃の日本に、僕らを引きずり込むために映画の全てが動員されている。
 想像と現実の区別がつきにくい幼い子供の世界は、『ススメ、ススメ、ヘイタイススメ』で教育が始まるあの時代においては時に異物であり、小林先生と初めて向き合う時の語りは、要領を得ず自由奔放に跳ね回る。
 そういう厄介で困った……と、世間一般には判断されてしまう個性含めて、トットちゃんという存在が何を見つめ、何に飛び込み、何を学び取って育っていくのか、彼女を取り巻く世界の全部に異様なこだわりを込めながら、映画は積み上げていく。

 特に序盤、ともすれば七十数年の断絶を経てどこかと置い異世界のように感じられる”戦前”がどんな場所であり、何があったのかをインフラレベルから書き起こしていく筆には、力強い迫力があった。
 多動傾向が見えるトットちゃんが事故スレスレに危ういほど、自由が丘の道路には自動車が走っているが、そこはアスファルトで舗装されず水たまりが残っている時代。
 後のNHK交響楽団コンサートマスターを務める、文化経済的エリートの家には氷を直接入れるタイプの冷蔵庫があり、マッチで焼いたトーストを食べシェパードと暮らす家が、確かにあった時代。
 しかし下水道の整備はまだまだで、蓋を開ければ刺激臭が鼻を突くボットン便所で用を足していた時代。
 そこは文化的で美しく、近代的を通り越して現代的な満ち足りた生活の手触りに満ちた、明るく楽しい場所としてスタートする。
 食って走って遊んで出して、トットちゃんが生きる様々な局面をどんな文化とインフラが支えているのか、ドヤ顔せず徹底的に執拗に積み上げていく筆致は、七十数年の時間を飛び超えて”戦前”を身近にする。

 この文化的ワープ装置が、夢の国のようなトモエ学園へと僕らをスムーズにいざなって、明るく快活で自由で身勝手に見えるトットちゃんが、社会に上手く馴染めない自分に幼いなり疑問を懐きながら踏み出した場所が、楽園と思えた視線と重ね合わせる。
 藤の花美しい学園はテーマパークのように楽しそうで、子供らは極めて自由に、花と音楽に満ちて幸せに暮らしている。
 そこではハンディキャップを抱えた子たちも、小林先生の理想に皆で歩調を合わせて一緒に進み、興味の赴くまま自主性を育む……これまた近代的を飛び越え現代的な教育がなされている。
 しかしそれは現在の視聴者の価値観に合わせたフィクションではなく、実際にそこにあった理想の具現であり、氷の冷蔵庫や美味しいトースト、あるいは華やかでオシャレな黒柳家の装いと同じように、”戦前”一つの事実である。
 現代風のコンプライアンス意識に合わせるのであれば、お風呂場やプールにおいてトットちゃんの裸身は描かれないだろうし、色々危ないトモエ学園の自主自由な学びにもフィルターが掛かっていただろうが、このお話はあくまでトットちゃんの目の前にあったものを、そのまま削り出そうと力みのない渾身を絞り出す。
 それは確かに、そこにあったのだ。
 戦火に焼かれ、理想のまま潰え、若い身空で命を儚くしたとしても、確かにあったのだ。

 

 何しろ小さなトットちゃんの見ている世界を描くので、戦争はあくまで遠い場所にあり……それは黒柳家やトモエ学園が必死に、その気配を子どもたちから遠ざける努力の結果でもある。
 木に登る、プールに入る、本を読む、二人だけで家に帰る。
 大人からすれば何でもないことのように思える全てが、全身全霊を注ぎ込む大冒険であり、トットちゃんのがに股、あるいは泰明ちゃんの冷たく不自由な手足の描線は、そこにこもるフィジカルな力強さを、懸命に焼き付ける。
 食べて糞をし、必死に駆ける身体的存在感を子どもらに宿し続け、生きていて生き続けようとする、幸せになろうとしている存在として彼らを描いていたことは、迫りくる戦争と死の気配へのプロテストとしても、ただただ懸命で眩しい六歳のスケッチとしても、大変重要で、美しいものだった。

 小児麻痺というハンディを背負った泰明ちゃんが、トットちゃんと手を近づけ触れ合ったことで初めて、その衣を泥に汚した時。
 倒れることも恐れず二人三脚で、汗まみれに校庭を駆けてゴールに辿り着いた時。
 障害を持つ子どもへの哀れさはその汗に……『ズルしないでよ!』の叫びにかき消されて、ただ一人の友だちとして共に有った日々の掛け替えなさが、そこで幼い彼らなりのプライドと懸命さを燃やして生きていた人生の実際が、フィルムに宿っていく。
 その溌剌とした力強さが、鮮烈なパステルの色合いと季節ごとに美しい花と光の表現の中、一個一個輝いているのはとても良かった。

 小林先生が子どもたちに告げる『みんな一緒に歩く』とは上からのお題目ではなく、あくまで子どもたちが自分の足で、自由に必死に前へと進んでいく歩みを生み出す営みにあり、そこにどう学園と己が寄り添っていくのか、子どもたちに見えにくい場所で考え続けている様子も、大変印象的だ。
 一見野放図に自由にさせているようで、その自由をトモエ学園というアジールに実現するためにどうしたらいいのか、自分たちはどうするべきなのか、責任を引き受けて笑顔でい続けている様子は、強く胸を打つ。
 尋常小学校では騒ぎの種扱いされてきた、トットちゃんの”今”を全部喋ってもらうべく、四方八方に吹っ飛んでいく幼い思考に膝を合わせて、吐き出して吐き出して最後に残った不安に手を添え、『キミは、本当はいい子なんだよ』と、一番大事で一番いってほしかったことを告げる。
 それが真実、トットちゃんの胸に響いたからこそ全てが終わってしまった後の電車の中、幼い弟を胸に抱きながら彼女は同じ言葉を、己より弱く……だからこそ守るべき存在に告げるのだろう。
 泰明ちゃんのプライドを見守りつつ、相撲勝負ではリスクが高すぎると判断して場を預かり、腕相撲に土俵を変えて子どもたちの”自由”を導いたり、何気ない一言がナイフのように幼い自尊心を傷つけていないか、すりガラスの向こう側で常に気にかけている様子が描かれたり。
 毎日楽しいことばかりのトットちゃんの世界を、誰がどんな思いで守っているかを、丁寧に積み上げているのもまた良かった。
 この愛の鎧はトモエ学園だけでなく、黒柳家にもしっかりと満ち溢れていて、パパママがめっちゃラブラブしていて、その愛の余波がトットちゃんの在り方を生み出しているのだと解る描写も素晴らしい。

 そんな人達に有形無形に支えられ、この世で一番高い場所へと友だちを招待して語らう場面が、ある種の”徹子の部屋/ZERO”となっているのも、また面白かった。
 このお話は六歳の幼く良く泣く、他人の痛みがなかなか分からないトットちゃんが、夫を奪われ困憊する母の代わりに赤子を抱けるような”お姉さん”になるまでの物語であるが、黒柳徹子の実在が莫大なエピローグとして、映画の外側に広がっている。
 泰明ちゃんに生きる難しさを否応なく刻んだポリオから、幼子を守るためにワクチンを世界中に届けたり、日本史上初のテレビジョン女優として彼が見れなかった夢の中に生きたりしたのは、これまた都合のいいフィクションではない。
 この映画の続編として、生きる伝説が既に成し遂げた数多の物語があることが、この映画の豊かさをより強く増幅しているのは、存命人物の伝記を原作としているがゆえの面白さだろう。
 ここら辺の地続き感を、ありとあらゆる場所にこだわり抜いた作中世界のリアリティが下支えしているのも、フィクションを本気で削り出していく姿勢が生み出した、幸福な共鳴だと思う。

 

 愛と文化と経済に守られ、時代を覆う薄暗い気配はトットちゃんには見えにくいわけだが、確かにそれは存在する。
 その影が明確になるのは花も枯れる12月の初頭、真珠湾攻撃により戦争が具体化し、スパイを無邪気な未来の夢ではなく、洒落にならない禁句としなければいけない時代が到来してからだ。
 それぞれ華やかで美味しそうだった海と山のお弁当は質素になり、お母さんが整えてくれた衣服も色を失い、華やぎに満ちていた世界には山盛りのスローガンと不定形な”空気”が満ちていく。
 全体主義の首輪がダイレクトに黒柳家を締め付ける描写はないし、雨中のトットちゃんと泰明ちゃんを叱りつけたおじさんも暴力的ではない”いい人”なのだけども、そういう人も何もかも、戦争に飲み込まれていく。
 無邪気な子どもすら例外ではない、生活や文化や平和を飲み込み塗り替えていく戦争の手触りは、前半トットちゃんを包み守っていた、美しい色彩が鮮烈だからこそ強烈だ。

 そんな不定形で侵襲力の高い戦争の空気に、学園も黒柳家モノクロームに染められていくわけだが、ではそれが全ての敗北なのだろうか?
 このお話は勿論否と答え、灰色の世界を彩る豊かなイマジネーションと、その発露たる色彩と音楽をこそ、致死性の”空気”に抵抗する武器として選ぶ。
 初めて学園の電車に乗った時、泰明ちゃんがプールの中で己を縛る重力から自由になった時、そして別れの気配を漂わせる悪い夢を描く時。
 アヴァンギャルドで先進的なアニメーション表現に果敢に挑み、イマジネーション(トットちゃん最大の魅力でありながら、学園の外では余計ごととして扱われてしまったもの)が現実を飛び越え飛翔する様を描いたのは、素晴らしい挑戦だと思えた。
 あそこでトットちゃんを包む”現実”を描く美しい筆と、少し違った筆致に飛び立つからこそ、戦争の重力に惹かれてモノトーンに染まる世界が、それでもなお色を取り戻し花に満ちる可能性で、作品を満たすことが出来る。
 表現の腕力で”日常系”でもある映画に起伏を付ける意味でも、イマジネーションの翼がどれだけ高く飛翔できるのかを描く意味でも、大事な見せ場だった。

 

 縁日のひよこを予言的前景として、戦時に染まっていく雨の街で泰明ちゃんは、自分が待つ運命を悟ったように”アンクルトムの小屋”を手渡す。
 そんな運命に至る前に、雨にも負けず懸命な無邪気さではしゃぐ二人の歩みが、灰色の街に虹をかける場面はとても美しく、儚く、だからこそ切実だった。
 子どもでしかないトットちゃんにとって、戦争の現実は『お腹が空いた』でしかなく、しかしその狭い視界においても、自分を愛し彩り豊かだった場所が壊れていってしまう気配は、敏感に察せられる。
 泰明ちゃんは戦争に殺されたわけではないが、しかし彼の葬列にかつてのように感情のまま泣きじゃくるのではなく、気丈にお別れを告げて”お姉さん”したトットちゃんが耐えきれず駆け出す中で、戦時の真実が疾走の中可視化されていく。
 それは確かにそこにあり、ここから先の未来にも確かにあり続ける、実在性の影だ。
 死地に英雄を送り出して大いに騒ぎ、その裏で子どもたちが戦場を無邪気に演じ、街のそこかしこに取り返しのつかない傷と喪失が、確かに在ってしまう時代。
 そういうモノが幼い己の周りに確かにあることを、トットちゃんは泰明ちゃんとの離別を起爆剤にして、豁然と理解していく。
 死を直視すれば子どもは子どものままではいられず、可能なら遠ざけておきたいそんな厳しさ辛さを否応なく、弱い者たちに押し付けていく戦争の長い影を描く筆もこの映画、あくまでトットちゃんの一人称である。

 耐え難いものから逃げ出し、自分が”いい子”であると教えてくれた楽園に戻ってうずくまるトットちゃんに、小林先生は追いついて物語を手渡す。
 それは奴隷制の抑圧に押しつぶされず、魂の逃走を続けた人の記録であり、それを手渡してくれた泰明ちゃんもまた、病に襲われた己が可哀想な存在などではないと、勇気と力を得ていたのだろう。
 日本で最初にリトミックを導入したトモエ学園を舞台とする以上、この物語は必然的に音楽映画にもなる。
 野見祐二の見事な劇伴がしっかりとドラマに寄り添い続ける物語において、リズムの中で生きること、思いを歌に乗せて綴ることの意味が最も鮮明に打ち出されるのが、弔歌であり抵抗歌であるというのは、強く得心するところだ。
 綿花栽培の辛すぎる労働に、肉体と魂を押しつぶされないために絞り出した労働歌と、救いなど見えない暗い奴隷生活の中それでも希望を歌った霊歌を源泉とする、黒人音楽のスピリッツが”アンクルトムの小屋”を仲立ちにして、死せる泰明ちゃんと戦時をそれでも生きるトットちゃんへと、たどり着いたような感慨もある場面だった。
 泰明ちゃんを兵隊になれぬ穀潰しと罵る、愛国少年とトモエ学園の子どもたちが闘う時、何より歌を選ぶことが、人がなぜ音楽とともに生きるのか、小林先生がそういう存在として子どもたちを抱きしめたか、一つの証明出会ったように思う。
 あの時誰よりも素早く、悪意の石礫にからだを投げ出し友達を守った泰明ちゃんは間違いなく、世界で最も勇敢で優しい戦士であった。

 歌うこと、夢見ることこそが人の人たる所以だと、信じて子どもたちに靭やかな自由と優しい責任を手渡した小林先生の教育は、音楽堂に敵艦撃沈のポスターを貼る時代に負け、空襲に焼け落ちたように思える。
 しかし彼の生徒が戦争の長い影を振りちぎり、避け得ない死の定めすら乗り越えて、テレビを通じてより多くの人に歌を届け、あるいは”窓ぎわのトットちゃん”の全印税を注ぎ込んで障害者教育を前進させた事実を見れば、戦争はトモエ学園を燃やし得なかったのだと解る。
 オーケストラの音楽も華やかな様相も、優しい愛犬も心躍るパーマネントのおしゃれも、何もかも口をふさいで窒息させる”空気”を押し破って、歌はそこにあり続ける。
 あり続けなければいけないと信じたから小林先生は、暗く陰っていく時代を大人の立場から当然見据えつつ、子供らの背丈に膝を曲げて隣り合い、ピアノを引いてリズムを刻んできた。
 その音楽が再び、より強く世界に広がっていった事実あればこそ、この映画もあるわけで、戦争終結を描かぬまま終わるこのアニメを確かに、不屈の希望が照らしているように爽やかに終われるのは、そんな伝記の構図が大きいように思う。

 トモエ学園最後の日に、トットちゃんは今は亡き畏友を見つめながら『遠く離れても、また会える』と告げる。
 それは泰明ちゃんの葬儀に、必死に”お姉さん”ぶって告げた強がりの繰り返しであり、疎開先でともすれば命を落とし、晴れ晴れ未来の夢を告げた仲間たちへの、餞の詩であったのだと思う。
 あの場に集った誰も死んで欲しくないと、皆眩しく輝いていた日々を見届けた僕は心から当然思うのだけども、このアニメがトットちゃんの幸せな視界の端っこで描き続け、冬を経て現実に染み出し無視できなくなった”空気”の悪辣を思えば、幼い命を儚く散らした者たちも、またいたのだと思う。

 

 では75年前の聖嬰児たちは、あの戦争で死んでいった人たちは、皆無力で可愛そうだったのだろうか?
 そうではないだろうと、トットちゃんの一人称に……そこを大きく占める泰明ちゃんと学園の思い出に専有されたかに見える物語は、強く告げている。
 ハンディを背負い生まれ長く生きれなかったあの子は、懸命に己の人生を両の足で走り、友の手を取った。
 そういう存在を可愛そうと遠ざけるのではなく、歩調を合わせて隣に並び、その渾身の歩みには確かに彼らなりのプライドと歌があったのだと引き寄せるように、この物語は出来ている。
 遠い昔、何処か別の場所で起きた悲劇ではなく、変わり者でチャーミングで素敵な、どこにでも居る小さなトットちゃんを取り巻く世界、そこに身を置く少女の想いに見るものを飛び込ませることで、死も生も、影も光も、そこに確かにあったのだと伝える試みを、渾身の筆でスクリーンに叩きつけること。
 そんな難事に、極めて美麗な画作りと弾むような音楽、少女が教育と出会い成長していく等身大のドラマを握りしめて挑んだこの映画は、緊張の度合いを増す”今”だからこそ現代的な物語として、見事に己の両足で立っているように思う。

 あの時の悲劇には確かに、今心を弾ませる美しいリズムと、苦境に押しつぶされないために必死に絞り出した歌があり、イマジネーションに満ちていた。
 その小さな懸命を押しつぶす定めも暗い影も、そこには確かに在ったのだけども、それだけが戦前・戦時の全てではなく、その先に続く物語は確かにある。
 時間も死も超えて、なにか輝くものを伝え導きうるものが歌なのだとしたら、この映画もまた時代を越え繋ぐプロテスト・ソングとして、長く歌い継がれるべきだと感じる。
 徹底してトットちゃんの一人称に見るものを飲み込んで進む、この映画という物語装置の凄まじさはつまり、『童心に帰る』と気軽に使われがちな一歩がどれだけの難行なのか……それに挑むべく小林先生が総力を振り絞っていた作中の描写と合わせて、強く教えてくれる。
 そんな風に、執念を込めて選び取り描ききった表現と、作品が描くべきテーマとメッセージが分かちがたく重なっている映画は、力強く得難いものだろう。

 

 とても優れた映画であり、楽しい物語であり、力強い可能性を信じさせてくれる、陰りの中の光であった。
 トモエ学園に咲き誇った藤が戦火に燃え尽きてなお、美しい林檎の花が逃げ延びた先に咲き誇るように、学園での日々を経て”お姉さん”になったトットちゃんは、苦境を越えて大輪の花を咲かせていく。
 冒頭においては窓際から身を乗り出し、尋常な社会からドロップ・アウトするきっかけになってしまったチンドン屋に、弟を抱いたトットちゃんは惹かれつつ踏み出さない。
 それはイマジネーションが持つ危うさに溺れず、現実のタラップに足をかけてなお、私たちは”いい子”なのだと、小林先生が教えてくれた理想……あるいはただただ確かにそこにある事実を、手放さず進んでいく結末だ。
 そんな風に、あくまで一少女の一人称で進んできた物語を少女がたどり着いた新たな景色で終わらせる徹底も含めて、とてもいい映画だった。
 今見れて、とても良かったです。
 ありがとう。