イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

僕の心のヤバイやつ:第25話『僕と私の恋心』感想

 眩き斜陽の中目を開いて、恋する君の中に僕の今を見つける。
 満を持しての大地丙太郎コンテ、長かったドタバタ青春旅物語の終着点を描く、僕ヤバアニメ最終回である。

 原作と結構構成を変更して描かれながら、むしろストレートかつスマートにこの修学旅行で描かれるべきだったものが再構築されているような、リッチな最終章となった。
 下ネタ含みのダイナシ系ギャグラブコメというより、かなりド直球な胸キュン青春物語としての顔が最初から濃かったアニメの描き方を思えば、千本鳥居での告白からエモーションを途切れさせることなく、一気にオーディション出発まで繋ぐのは納得の変化だと思う。
 先週どことはなしの寂しさを感じていた、小林ちひろと山田杏奈の関係性を補強するようなシーンも追加されていて、主役二人の絡み合う思いを主軸にしつつ、色んな人との関わりが拡がるお話として、とても良い最終回となった。
 25話色んなことがあったアニメの総まとめとして、思い出ボムを随所で炸裂させながらゴールへと駆け抜けていく京ちゃんが、山田がいなくても学校を楽しめるほど豊かになった自分の人生を思い返し、そのど真ん中で眩しく輝いている山田杏奈へ、遂に恋心を伝える場面は、やはりジンと心に染みた。
 そこで終わるのではなく、京ちゃんが好きになった山田が山田らしく、夢と仕事にちゃんと向き合った後二人の大事な場所へ戻ってきて、彼女自身の言葉で思いを伝え、眩い光の中へ新たに進み出して終わる。
 前髪の奥に瞳を隠し、世界と自分のあり方を真っ直ぐ見つめられなかった少年が出会った光がどのようなものであるのか、もう一度描き直した後に流れる”斜陽”は、2クールの総まとめとして大変素晴らしい強度を持っていた。
 とても良いアニメであり、アニメ化であり、楽しくありがたいお話でした。

 

 

 

 

画像は”僕の心のヤバイやつ”第25話より引用

 つーわけで先週衝撃のヒキを膨らます形で、アダルトな色合いの桃色修学旅行の夜は耽る……。
 最終話、高まるエモーションで一気に走り切るためにギャグ要素を片付けておく……って意味合いだけでなく、この場面は京ちゃんと山田にとって”性”ってのがどういうもので、どう付き合うことを彼らが選ぶのか、最期にもう一度確認するような場面だったと思う。
 萌のヒソヒソ話に垣間見える、オトナの割り切った関係性(への誤解)に憧れつつ、京ちゃんと山田はまだまだ未成熟で純粋な子どもそのものであり、強がった仮面の奥には赤ちゃんのように泣きじゃくる顔が隠されている。
 悶々と興奮と妄想と興味を膨らませ、時に全てを支配されそうになってしまう強力な要素ではあるけども、布団の中危ういところまでお互いの身体が近づいた時、京ちゃんは自分自身が何を書きかけていたのか思い出し、そっち方向に突っ走る運命にブレーキをかける。

 セックスしなけりゃ清いとか、したら間違ってるとか、そんな原則論では語りきれない個別の手触りが、それぞれの青春と恋には宿るものだが。
 カースト上位でリア充で美人で、自分には縁遠い山田杏奈を幻想し、そんな思い込みを一個一個、ガキっぽくて変人でヤバくて、尊敬できるところが沢山あって素敵な生身の山田杏奈と向き合ってきた京ちゃんにとって、未だ正体定かならぬ”性”に押し流されて、自分が伝えたいことも置き去りに身体が先に繋がってしまうのは、望まぬ決着なのだ。
 そこで自分の情欲最優先で山田を求めてしまうことは、物語開始時、屍姦妄想でガッシュガッシュキメてた、一番”ヤバイ”頃の京ちゃんに戻ってしまう行為であり、眼の前の誰かをちゃんと大事に出来る、かつて望んで叶わなかった理想像に近づいていく恋には、あまり似合わない。
 同時にピンク色の暗がりに心音高鳴る市川京太郎も嘘ではなく、だからこそ山田を好きになった部分も引っくるめて、京ちゃんは自分の見ている山田杏奈と、そこに反射知る市川京太郎をもう一度、確認することになる。

 

 二つの鳥居が連なる道で、京ちゃんは山田と二人きりになる方を選んで進み、妖精のような彼女に付いていく。
 典型的な陰キャとして自分を定義し、そこに閉じこもることで柔らかな心を守ろうとしてた京ちゃんにとって、時に眩しすぎて暴力的な光として、山田杏奈(への恋)は描かれてきた。
 最終話はその筆致を再確認するように、眩い光が幻想的に溢れ、お互いにとって二人がどういう存在であるのかを描いて行く。
 前髪で視界を塞ぎ、世界を見ること/世界から見られることを拒絶していた少年が、否応なく眼の前の世界を……そこにいる誰かを見つめざるを得なくなった、視線の推進力としての恋心。
 それが行き着く先に何があるのか、ずっとわからないままドタバタ修学旅行(あるいは25話の物語)を駆けてきた京ちゃんが、ようやく捕まえた彼の答え。
 それは狐の仮面の奥に、泣きじゃくる幼い心を隠している。

 男と女、陽キャ陰キャ、勝者と敗者。
 正反対に思えた存在が実は自分ととても良く似ていて、優しく脆いからこそ必死に思いを隠して強がる……だからこそ仮面を誰かに外して欲しいと願う、あやふやな季節を生きる同志だと、京ちゃんはもう知っている。
 仕事と夢より、日常と恋を選んだ自分は今楽しいのだと、必死に思い込もうとする山田がつけているものは、世界は下らなくて自分はヤバいんだと、思い込むことで自分を守ろうとしたいつかの京ちゃんと、多分そっくりなのだろう。
 だからこそ仮面を外して、あんま楽しそうにしてない山田の顔を確かめることも出来るし、ずっと抑え込んでいた涙を、感情を制御しきれない幼さを、外に出すことも出来る。
 そういう特権を、少女と少年は既にお互いに許している。

 

 

 

 

画像は”僕の心のヤバイやつ”第25話より引用

 その緊密で特別な距離は、狭く閉じかけていた世界を広く拡げてくれる力を持っていて、だから京ちゃんは山田のことを好きになった。
 山田がいなくても、世界は楽しい。
 楽しいと思えるようになったと、心からの感謝を伝える時に、京ちゃんは山田から外した/受け取った/引き受けた仮面を被って、涙を見せないようにする。
 それは山田がここまで頑張って演じてきた、”楽しい自分”という嘘だって無価値なものではなく、そういう強がりを自分だって背負うし、仮面をつけていればこそ言えることだって沢山あると、友達に告げてあげたい行動なんだと思う。
 ここら辺の愛しく大切な”嘘”との向き合い方は、山田杏奈が職業として選んだ”演者”という道を肯定し、そうやって自分より一歩先に社会へ踏み出している山田だから好きになった、京ちゃんの思いを補強もしているように思う。

 世界には薄汚れた嘘ばかりが満ちていて、誰かを利用して良いように生きていくしか大人になる道はなくて、そんな世界で自分が自分でいるためには、ヤバくなるしかない。
 そう思いかけていた京ちゃんが、ここで仮面を被って『山田がいなくても、世界は楽しい』という、嘘であり本当でもある気持ちを泣かぬまま伝えようとしたこと。
 そんな強がりの直ぐ側に、溢れる感情を抑えきれず泣いてしまう純粋な幼気と、山田杏奈への恋心が確かにあるのだと、思いを伝えれるようになったこと。
 強くて汚れたオトナじゃない、純粋で真っ直ぐなままの子どもでもいられない、その中間点にいる自分と、それを取り巻く思いの外悪くない世界を肯定できる所まで、誰が自分を連れてきてくれたのか。
 25話散々遠回りし、ようやっと辿り着いた場所で、京ちゃんは自分が何を求め、どんな存在で、眼の前の女の子に何を言ってあげたいのか、しっかり見据える。

 

 カンカンのイヤ告発圧力に背中を押されるように、京ちゃんは山田の手を引いて駅まで連れて行くわけだが、ここでとっておきのダメ押し、リュックパンパンに山田用のお菓子持ってきてる優しさが、ダイレクトに手渡される。
 桃色の闇の中で一瞬ふらついた、欲望の赴くままセックスに突っ走るような間合いではけしてなく、もしゃらもしゃらお菓子食べるのが何より優先の、ガキっぽい現在地。
 そこにいる山田杏奈が京ちゃんは好きだし、そこから進み出してもうちょい自分の足で社会に立とうと頑張っている姿も、また好きなのだ。
 そんな山田が”今”を戦うためのガキっぽい兵糧を手渡す時、京ちゃんは自分の中にある幼さもまた肯定して、無理な背伸びをやめているのだと思う。
 情けなくて、弱くて、それでもなりたい自分にちょっとでも近づけるように自分なり、頑張っている市川京太郎と山田杏奈の、幼さと奮戦を愛していくための、大事な一歩へ、二人は進み出していく。

 ここで小林が合流し、彼女なりの心配と愛を山田に手渡すのはアニメオリジナルの展開だが、凄く良かったと思う。
 京ちゃんが山田を思うのと同じく、親友である彼女も山田を思いやっていて、学校と仕事の間で笑顔の仮面を貼り付けて、無理してる親友を助けたかった。
 その気持ちが山田の決断に追いついて、ちゃんと向き合って背中を押せたこの描写は、恋だけが世界の全てではないのだと描くことで、逆に恋の素敵さを爽やかに補強するような、横幅の広さを生んでいた。

 山田がいなくても学校は楽しく、山田がいてくれたからこそ学校が楽しくなったように、時に人生は何かが何かを否定し得ない、不思議な繋がり方に満ちている。
 恋が友情を押しのけることも、日常に夢を諦めることも、定まった必然なんかじゃなくて、子どもたちは(例えば『オトナは割り切った付き合いをするもんだ』みたいな)凝り固まった答えではなく、自分たちだけのもっと素敵な未来を、選び進み出すことが出来る。
 そんな可能性を描く上で、正反対に思える主役二人がお互いを魂の鏡として、お互いの在り方を見据えていく物語を……その先に恋心が言葉になっていくお話を、しっかりやりきったのは素晴らしいことだ。

 

 

 

画像は”僕の心のヤバイやつ”第25話より引用

 一世一代の大告白を終え、夢の先へと想い人を送り届けた後の、少しのインターバル。
 京ちゃんの周りにも山田の周囲にも、家族や友達や色んな人がいるのだと、最後に書いてくれたのが僕には嬉しかった。
 この話はロマンスなので、そらーフィナーレは思いの丈をぶつけ合い晴れて主役が恋人になることで終わるわけだが、それだけが世界の全部じゃつまらない。
 というか、そうではないことを教えてくれたからこそ”僕の私の恋心”なわけで、足立くんとじゃれ合ったり、山田家の人たちが愛娘を迎えに来たり、そういう描写が最終回にあるのは、京ちゃんが光の中で見つけたものを大事にしてくれる描写で、凄く良かった。
 京ちゃんを行き着くべきところへ送り出すのに、大きな手助けをしてくれたイマジナリー京太郎が、感情の赴くまま駆け出す最後の一歩を見守っているのも、めっちゃいい……。

 何しろ2クール、長い話だ。
 尊く眩しいことも、アホみたいで下らないことも、色んなことをやってきて、色んな場所に思い出がある。
 これを辿るように、京ちゃんが山田の元へ駆け抜けていく歩みをどっしり書いて余韻を生んでくれたのも、大変良かった。
 やっぱ修学旅行を前後編にして、どっしり色んなことを描く余裕を取ってくれたのが、大団円の大きな鍵だなぁと思う。
 告白という一大事だけを描くのではなく、ドタバタ騒がしい修学旅行の全部が意味あるものだと描く余裕があればこそ、京ちゃんと山田がなぜお互いを好きになったのか、恋心に向き合う中で何を見つけたのか、作品全体を心地良く俯瞰も出来る。
 物語全体を爽やかに辿るような疾走の先で、山田杏奈を見つけた時、やはり強い光が彼女を照らしている。
 暗い迷妄に落ち込みそうになる時、視野を広げ新たな出会いと生んでくれる光明として、恋と青春を描いてきた物語は最後に、一番強く輝いていく。

 

 

 

 

画像は”僕の心のヤバイやつ”第25話より引用

 物語のはじめ、熱のこもった影の中で思い込みの”大人っぽさ”にうなされていた少年と少女は、自分たちだけの特別な関係を育んだ特別な場所へ戻ってきて、自分たちらしく思いを繋ぐ。
 長く伸びた前髪に塞がれていた視界に、否応なく飛び込んできて心をかき回して、誰かを好きだという気持ちを教えてくれた子。
 その子に好きだと伝えて、好きだと返してもらうまでの25話。
 面白くもねぇ大人になれば、わざわざそんな回り道も足踏みもしなくなってしまう、大事な思春期の歩みを丁寧に積み上げてきたお話は、とても美しくて幸せな終わり方をしていく。

 湧き上がる恋情に自然に突き動かされて、下手くそなファーストキスに失敗するのが身の丈……と思わせておいて、不意打ちないたずらで山田が京ちゃんのほっぺたを奪い、目も開けていられないほどに眩い茜色の中に、京ちゃんが踏み出していくのが良い。
 その全部が、彼らが彼らだからこそ辿り着いた”今”の色と光に満ちている。
 影の中うずくまっていた京ちゃんは、確かに自由奔放な幼さを豊かに残す山田に引っ張られる形でこのお話を駆けてきたが、しかしそれが一方通行の偏った関係ではないから、最終話での告白は”ニ回”ある。
 追いかけて、追いついて、横並びに手を繋いで、お互いの目を幸せそうに見つめる。
 そうして反射する自分の姿を、もっと好きになれると思えたから、彼らはずっとお互いが好きで、ようやくそれを言葉にして、ここから更に進んでいく。

 

 そんな風に恋が思春期の優しいギプスとして描かれ、市川京太郎と山田杏奈だけの物語として一歩ずつ、時にたいそう下らなく、時に胸を焼くほどロマンティックに、2クールかけて色々描いてくれたのが、やはり良かった。
 無敵でも特別でもない自分を思い知らされて、他人を嫌いになりかけていた中学生が、自分がどんな人間になりたくて、世界がどんな風であってほしいのか、眩い光の中真っ直ぐ見つめるまでの物語。
 市川京太郎が自己再生と成長を果たすお話として、このアニメを見ていた自分にとって、作品が光学的モチーフに溢れていたのは納得であるし、それが一番強く光って終わっていくのは、とても良いなと思う。

 薄暗かった世界を照らし直し、もう一度色んなモノを見つめるための、かけがえない助けとしての恋。
 それだけではなく、友達とか家族とか、ちょっと話すだけのクラスメイトとか気に食わない先輩とか、色んな人がいる世界とそこにいる自分を、面白いと思えるまでの旅路は、まだまだ続いていく。
 しかし一つの到達点として、作中最もロマンティックな夕焼けを描ききってくれたことに感謝しつつ、このアニメの視聴を終える。
 大変良かった。
 ありがとう。

 

 

 というわけで、僕ヤバアニメ全25話が終わった。
 第9話で視聴と感想がスタックしたりもしたが、終わってみると良いアニメだった……というか、あそこでガチャガチャ自意識と作品の距離感を図り直した結果、ただ好きな漫画がアニメになった以上の親密さで、見終えることが出来た気がする。
 アニメーションという表現、2クール深夜アニメという媒体、あるいはそれらから想定される客層……そして原作に既に刻まれている作風の変遷。
 色んな意味で『原作通り』には出来ないアニメ化を、どう噛み砕いて自分たちなりのアニメを作り上げていくか。
 世のアニメ創作者全てが思い悩み、奮戦している難儀にこのお話も挑んで、ちゃんと自分たちなりの答えを刻みつけてくれたと思う。
 何よりもまず、そのありふれた奇跡に感謝をしたい。

 アニメーションとして見ると、山田杏奈との出会いを”光”として捉え、光学的詩情を経糸に京ちゃんの青春を編み直す演出が、作品全体をロマンティックにまとめ上げていたと思う。
 要所要所でぶっ刺さる牛尾憲輔の音楽と合わせて、エモい勝負どころをしっかり勝ち切るだけの強さを活かして、ドタバタ騒がしくも楽しい青春活劇に、特別な”潤み”みたいなものを宿していた。
 山田も京ちゃんもよく泣く、見た目より幼い部分を残した子どもたちなのだが、そういう子達のフレッシュな感情の触れ合いを描くにあたり、湿度ともまた違う”潤み”が瑞々しく画面に宿っていたのは、とても良かった。
 自分がどんな存在なのか、持て余しながら傷だらけに再構築していく思春期の難しさと愛しさを、恋と笑いにまじえてしっかり積み上げてくれたのは、青春ラブコメの本道、シンエイ動画の面目躍如といった感じもあった。

 

 過剰で定型化されたエモーションで押し切りに行きすぎて、ややクドい局面もないわけではなかったが、終盤はダイナシに終わらせて肩の力を抜く話数と、ガチッとど真ん中のエモで勝負しに来る回のバランスが良く、フィナーレに向けてかなり良いルートを走れたと思う。
 原作から結構な再構築がなされている”アニメ化”なわけだが、それで達成したい表現がどんなものか、(まぁまぁ消化に時間もかかったが)自分的に納得できる変化が多く、そうして描かれ直して改めて”僕ヤバ”がどういうお話だったか、受け取り直せる”アニメ化”独自の喜びもあった。
 声優陣の繊細で情熱的な演技に助けられて、子どもたちの不器用な真摯さが良く伝わる場面が多く、そういう彼らが好きな自分としては、とてもありがたかった。
 アホくさく笑える場面も含めて、当たり前に不自由な青春の中でそれぞれ皆、精一杯強く優しくあろうとしていて、それが実を結ぶ世界であってくれていることの嬉しさが、毎回しみじみ染み入った。

 個人的には、一度視聴体験が考えすぎの溝に入って出れなくなったアニメと、自分なり会話をし直してもう一度好きになれた……好きだったことを思い出せたのは、今更ながらいい経験だった。
 その歪みは作品由来のものではなく、自分の心の中にある色々厄介な影のせいなんだけども、それを生み出すものが何か、ちゃんと見つめ直すことでより良い場所に進んでいける体験は、作中で京ちゃんが闘った青春とどっか似ていて、自分としては面白い。
 僕は彼ほどチャーミングでもピュアでもなく、どこに出しても恥ずかしい煤けた中年アニメオタクなわけだが、それでも通じ合うものを強く感じたから作品を好きになり、彼がどんな風に自分を作り直し、世界を好きになっていくかを見届けたいと思う。

 物語の真ん中に堂々そびえ立った、山田杏奈との甘酸っぱいロマンスの中で、京ちゃんがそれを大切だと思えた、一番大きな理由。
 自分を照らし直す光となり、鏡となってくれる他者の尊さは、アニメオタクである僕にとって、常にアニメを見る行為、色んな人の努力と祈りで編み上がっているアニメというものの中にある。
 そういう自分なりの純粋な原点を、物語の転がる中で改めて感じ直すことが出来たのは、やっぱ良いことだったと思う。

 

 ありがとうございました、とても面白かったです。
 お疲れ様!