イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『黄金の烏(阿部智里、文集文庫)』感想

 八咫烏シリーズ、第三段である。
 山内を脅かす”猿”が顔を出し、桜花宮のシンデレラ・サスペンスだの、朝廷の権力闘争だのにうつつを抜かせていた一巻二巻の状況が、若宮が直面している危機に目をつぶったある種の贅沢だったことが解ってくる巻である。

 

 雪哉は山内現在の貴族的価値観に、素朴な地元&身内主義の観点からカウンターを当てる立ち位置でありつつ、四家に権力を分割し超自然的な脅威から逃れられていた、太平の山内の現状を、素直に内面化しているキャラでもある。
 金烏の使命がどうの、特別な力がどうのを、権力維持のための空疎なプロパガンダだと思っていた雪哉の視点は、彼固有のものではなく山内の現状そのものである。
 人の形を取り、宮烏に至っては己の本性に”戻る”ことを禁忌とすら考えている人間モドキが、自分たちの霊的な出自を忘れ、山中異界の機嫌や特異性を捨て去ってしまった末世。
 人間を模して政教は分離し、官僚制度は発展し、四家に専門分野と権益は分割され、”人間らしい”足の引っ張り合いや現世利益だけを追い求めていても、世界が回ると思いこんでいる状況が、実は非常にオカルトな基盤に支えられており、そこにアクセスする特権が真の金烏にしかない事実を、誰も尊重できないことが、猿と仙人蓋を巡る事件で明らかになっていく。

 神を継ぐものである神官王がその神秘性を剥奪され、形だけの神輿に担がれて実務を官僚組織が担い、権力を貴族階級が分割するという、人類史に共通の政治的変遷。
 幸運なことに長い平穏に揺蕩い、思う存分煩悩に溺れられる立場になった八咫烏たちは、そういうところも人間を真似て金烏を実権から遠ざけ、家門の栄達を邪魔するのであればお飾り支配者を殺してどかす、実務的な不敬をやってのける存在になった。
 しかし雪哉が若宮に付き従い、あるいは振り回されて見つめる山内の現状は、結界が綻び人心は乱れ、井戸枯れに暗喩される地異の気配も濃い末世だ。
 人食いの猿が謎の手段で入り込み、カスをそそのかして山内をひっくり返しかねない陰謀を企む現状を、正確に捉え危険視しているのは若宮だけだ。
 神に選ばれて生まれ落ちた彼が、個人的に直感する危機は彼個人の真実でしかなく、真の金烏に特有な感情の薄さが、それをあまたの人に翻訳し真実解ってもらう道を遠ざける。
 時代遅れの神官王だけが乗り越えられる、山内という世界全体の危機を、それに相応しいスケールとシリアスさで受け止めている人が少ないからこそ、金烏の特別な力も、それを必要とする火急の危機も、山内一丸となって……ともすれば四家中心の支配体制も、貴族の特権も投げ捨てて守らなければいけない認識が、ごくごく一部の人にしか共有されていない。

 人間の世界は神官王が独占する神秘がハッタリに過ぎず、神への畏敬と権力移譲が薄れていく不可避の歩みを進んでいったが、そもそも人間に化ける烏というオカルトな存在である八咫烏にとって、その本文は神が生る古代にこそある。
 結界に守られてきた平穏が崩れ、安穏の外側ですべてを飲み込むほど巨大化した文明が神秘の世界を飲み込もうとしている今、必要なのは時計の針を先に進めることではなく、真の金烏を中心とした古代の体制へと復古することだ。
 それは政治的ノスタルジーに彩られた権力闘争ではなく、リアルな危機として迫っている山内の崩壊を、実際的に回避する唯一の手段……だと、若宮周辺の限られた人たち以外は、全く感じられない。
 ”正しい”教育を生来祖父から叩き込まれた長束は、人間に主権が移った近代のやり口を投げ捨て、年功序列も派閥の綱引きも投げ捨てて真の金烏へみを投げ出す覚悟が整っていたが、敦房の一見が示すように貴族社会はその実情を理解しない。
 古臭い神の時代はとうに終わっていて、今権力を握る世界の中心は人間の頂点たる我ら貴族にあるのだという、心地よい夢を捨てられない。
 しきたりや偏見、アイデンティティの楔がどれだけ堅牢で邪悪であるかは、俯瞰で見れば狭苦しい牢獄で行われる、人権無視の婿取りゲームを華やかな王朝絵巻と思い込ませた、桜花宮の描写で良く伝わってもいる。
 どれだけ現実が神代への回帰を必要としても、それを成し遂げ世界を救いうるのか若宮のみだったとしても、貴族は権力を差配できる地位を捨てされないし、早急に書き換えなければいけない伝統や支配構造を、手放すことは出来ないのだ。

 

 若宮が直感的、個人的に見据えている山内の真実と、それを無視して滅びに突き進む山内の現状。
 このギャップの中間地点に立ち、若宮サイドに身を投げることを雪哉が選ぶまでが、今回のエピソードの運びといえる。
 おそらく神の継承者として過去何があり、今何をすべきかを断片的にしか把握していない若宮は、持ち前の感情の薄さもあって自身が見据えている窮境を、適切にボケ人間どもに伝えられない。
 なかなか動かない世界を粘り腰で書き換え、若宮が見ているものを皆が見れる形に翻訳する仕事か、自分たちが見ている未来のために強制的に世界を動かす傲慢、どちらかが今後必要になるのだろう。

 そのどっちにも転びうる純粋さと暗さ、両方が雪哉にはあるのだということはここまでの物語、じわじわ描写されている。
 身内大事の気持ちが行き過ぎたが故に、猜疑に陥り小梅を信じきれなかった今回の失態は、複雑な家庭事情から”居場所”にこだわる彼の認識の狭さと危うさ、エゴの強さをよく示していたと思う。
 そういう人間が、山内の危機を唯一突破可能な救世主の隣に立った時、主の姿をあるがまま見つめるのではなく、自分の望みに塗りつぶして致命的に間違える可能性を、鏡としての敦房が示してもいるだろう。
 ラストシーン、極めてエモーショナルに示された忠誠の儀礼が果たして、多重の困難に直面している山内を救いうる未来へ繋がっているのかは、全く読めない。
 読めない所に、このお話の公平な面白さと、読めぬが故のハラハラとワクワクがある。
 長束のお綺麗な理想主義、同族を殺せない若宮の致命的弱点、個人的霊感が政権運営の根本に在る危うさと、いくらでもヤバくなれる要素がバリバリ表に出てきたが、今後どういう歯ごたえでそこと向き合っていくのか。
 果たせなければ世界が滅びるだけな、ミスが許されない山内救済レースの輪郭も、よりハッキリしてくる巻だった。

 

 仙人蓋に溺れると、八咫烏は人形を留められなくなる。
 思考を失い、獣に戻る。
 ”猿”が何処から来たどういう存在なのか、今後暴くべき謎としてしっかりホールドしている物語においては未だ不鮮明だが、同じ獣である彼らが人食いの怪物に落ちているのが、八咫烏の未来図であるようなおぞましさが、ぼんやりとだが感じられた。
 華やかな錦を身にまとい、幾重にもしきたりと業を積み重ねて人間の真似をしているが、その根本が獣であることを捨て去り、何がどうなっても自分たちは霊長でいられるのだと思い上がった、畜生風情の成れの果て。
 人間の悪いところばかり真似した挙げ句、獣にもある情を投げ捨て権力闘争に勤しみ未来を食いつぶす果てに、言葉の通じぬ”猿”の現状が待っているのだとしたら、奴らは敵ではなく、おぞましい己の鏡であろう。
 そしてそういうものをこそ、人間は一番見つめたくないのだ。

 ”猿”の親玉は若宮が忘却している、山内と八咫烏にまつわる古代の知識を知っているふうだったし、殺し殺される関係を超えてどうにか、破滅を乗り越えるヒントをおぞましい敵であり、自分たちの未来を照らす鏡から学び取る道は、その聖性ゆえに眩しく輝いている。
 しかし身内と地元に縛られ、信に背を向け小梅と心を通じ合わせられなかった雪哉の在り方を見ていると、そんなに清く正しく生きられるものが、山内にいるのか疑問も生じる。
 ここまで三巻、さんざんどうしょうもない人間の業と、理想にたどり着くにはあまりに至らぬその生き方を積み重ねてきた物語が、主役だけに特権的に正しい道を進ませ、あるべき幸せを掴み取らせるものかと、僕は正直疑っている。

 それは期待でもあって、神の後継者として生まれようが、あるいはその側近として正しい使命を背負おうが、人間の限界に苛まれ、迷い間違い苦しんでいく、容赦のない筆を主役と世界に向けてほしいという、マゾヒスティックな願いが、僕の中に正直ある。
 それだけなら自分を人と間違えた獣が、愚かさのまま滅びに落ちていくのを上から見下ろす傲慢なのだけども、この話は間違いなく愚かさの中の正しさ、呪縛の奥にある祈りをすごく大事に、人間をしっかり見ている。
 そういう清廉な手応が、業と返り血に濡れた山内攻防記にしっかり感じ取れるからこそ、この先を見たくもなるのだ。

 

 アニメに描かれなかった未踏領域へ、次なる四巻からは踏み込む。
 毎回あっと驚くどんでん返しでもって、作品のフレームを打ち壊し世界を広げてくるこの物語が、次の矢として用意しているサプライズは一体何なのか。
 大変楽しみである。