イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

椎名誠を読む 3

というわけで椎名誠のSFを読んでいる。90年が椎名誠にとって記念碑的な年である事はすでに述べたが、その中でも最大の事件が今回読んだ「アド・バード(集英社文庫)」の日本SF大賞受賞だろう。連作短編だった「武装島田倉庫」とは異なり、マサルと菊丸兄弟の父親探求の旅、という非常に解りやすく骨太な骨格を持つこの話は、なるほど「武装島田倉庫」とは異なる、作家椎名誠の強さを表明している書物である。
話の筋は基本的にわかりやすく、オールディスやディックの影響が強い「戦後」を舞台に、主人公兄弟が困難に打ち勝ちながら父親失踪の真相に挑む、というものだ。一般的なスジだからこそ主人公への共感、彼らが出会う困難とその克服の書き方、彼らが出会う人々の掘り下げ方などの小説作法が重要になる。奇策でその部分の実力をごまかすことは、なかなかに難しいのだ。
その意味で、この長編は非常にオーソドックスに出来ている。宣伝戦争により荒廃した「戦後」の世界を、時には自力で、時には仲間との協力で潜り抜けていく二人の活躍には、非常にスムーズに共感できる。思うに、それは作家椎名誠が強くこだわる「食うこと」寝ること」の困難と解決が一役買っているのではないだろうか。マサルと菊丸(に限らず椎名誠作品の登場人物)は良くメシを食い、良く眠る。それは人類である以上読者がみな体験していることであり、身近だ。その皮膚感覚が、作家椎名誠の強さの一つであるような気がする。
話が少し横道に逸れたが、800枚を越える長編を読みきらせるためには、主人公をはじめる登場人物の造形と、彼らが出会う物語の背骨、つまりは基本的な小説力が欠かせない。「アド・バード」は間違いなく面白い小説だし、ということはさかしまに椎名誠の文章の背骨、というモノの確かさの将ザになっているように思うのだ。面白くない小説は、なかなか一気に読めないものだと僕は思う。
では、それだけでこの小説は構成されているのだろうか。そうではない。椎名誠の奇想は説明をしないことにある。世界荒廃の原因になった「広告戦争」の真相も、そこからの脱出方法も、この小説では示されない。マサルと菊丸と同じように、読者はそれを知ることは出来ず、ただ投げ出される。その上で、例えば「遺伝子改良された宣伝樹木同士のバイオ闘争」といった図抜けた発想がこれでもかと詰め込まれ、一種の酩酊感覚とともに提供される。なぜ気が動き、周囲の生態系に影響を及ぼせるようになったのか、それは説明されない。ただ、描写がある。樹は動き、周囲の動物を操り、戦う。それはこの作品(と椎名誠SFの大きな部分)の背景である「戦後」においては一般的な風景なのだ。
その異物感を飲み込ませるものもまた、小説の力である。奇妙な響きのする文言の選び方、荒廃した世界に差し込まれる叙情性、「宣伝鳥」を意味するタイトル「アドバタイジング・バード」の清廉な響き。それらの感覚はやはり優れた作家の証明だと僕は思うし、それがあるからこそ、奇妙さとノスタルジーを同居させた椎名SF独特の地平というものもまた、オリジナルな魅力を放っている。それはとてもオーソドックスな実力に支えられているのだ。
面白い小説を書けることはとても良いことであるし、面白い長編を書けることはとても難しいことだ。椎名誠がそれを出来ることを「アド・バード」は証明している。そのように感じた。椎名誠は僕が十代のころに貪るように読んだ作家で、久方ぶりに再読し、やはり自分の小説の血の何割かは子の文字によって造られているのだと実感した。その感覚を得ることが出来ただけで、この試みは面白いものだった。そう感じた。