イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ダンジョン飯:第15話『ドライアド/コカトリス』感想

 ラスボスに目をつけられたり、花粉症になったり、石化して漬物石してみたり。
 色々あったけど、僕たち冒険者は元気です!! という、ダンジョン飯アニメ第15話である。

 妹復活の目的を果たして大団円……と思いきや急展開で大変なことになったり、別パーティーに視点が移ったり、色々起こってた最近のダンジョン飯
 今回は慣れ親しんだドタバタ冒険喜劇が久々に戻ってきて、美味そうな魔物メシもたっぷり食べて、『やっぱコイツラの大騒ぎ、良いわぁ~~』と思える回だった。
 このしみじみした手触りも全滅寸前の冷たいザラつきや、魔物より人間を見ているカブルー側を描いたからこそだと思うので、展開やキャラを拡げる利点を改めて感じられた。
 傍から見たらヤバくて問題だらけかもしれないが、ライオス達の食ったり戦ったりはやっぱり楽しそうで、そういう連中がどんどん距離を近くしながら迷宮の深奥へ突き進む歩みには、魅力的な吸引力がある。
 面白いから先が見たくなり、先を見るほどに楽しくなってくる心地よいフィードバックが、外部からの刺激を受けてより加速してきた感覚は、1クールじっくりトンチキ冒険者たちを見てきたからでもあろう。

 そんな連中が今回挑むのは、ドライアドにコカトリス
 花粉症に悩まされ、ツッコミついでに石化して大変に愉快ではあるが、戦い自体は命がけの激しさがしっかりあった。
 アニメならではの迫力で、魔物グルメが安楽なものではないと伝えてくれることで、負かした相手を食材に命を繋ぐ営みが、生活や人生と密着している様子も間近に迫ってくる。
 人間の形をしてるけど対話は見込めない、ドライアドとのバステ塗れ戦闘とか、ライオスが前線に立てない分闘士としてのセンシの頼もしさが際立つコカトリス戦とか、バトルのバリエーションが豊かなのは、このお話の地味に良いところだ。

 迷宮の主との激戦を経て、飢え死にしかけているパーティを包む闇は暗く、寒々しい感じがする。
 冒頭の色合いが一行の現状を上手く伝えて、『食わせねば……若いものには食わせねば!』とわななくセンシの焦燥、戦いの果てに作った独特の料理の温かみが良く分かる。
 マルシルの魔力切れを一種の”空腹”として生かすことで、それを満たし新たな可能性……ライオスのノーム魔法習得を開いていく起爆剤として、魔物メシが機能している様子も良く分かった。
 こういう欠乏と充足のバランスが上手いからこそ、食べても食べても腹が減り、だからこそ毎日の食事を美味しくいただける人間の面白さが、お話から逃げないのだと思う。

 

 激戦を経て実力不足を思い知った一行は、情緒的な面でも能力的な面でもお互いの特質を混ぜ合わらせ、絆を深めていく。
 マルシルの特権だったはずの魔法をライオスは学び、魔力酔いに苦しみながら実地でし石化解除魔法を習得して、窮地を脱していく。
 あるいはコカトリスと戦う時、センシはライオス並の魔物知識を発揮して攻略の糸口を掴み、マルシルは彼女なりの迫力の出し方でかつてバジリスクを気圧した、トンチキ戦士の戦い方を真似る。
 花粉症でドワーフの眼が効かなくなったら、ハーフフットの優れた感覚を借りて戦い、パーティーはお互いの欠落を埋める一つの有機体として、だんだん機能しつつある。

 この喜ばしき混交は能力面だけでなく、情緒においても進んでいる。
 先々週顕になったチルチャックの情とか、なりふり構わず人頭(に見えるもの)にかぶりつくマルシルとか、狂乱の魔術師との激戦を経て、ちょっとよそよそしいところがあったパーティーの垣根が崩れ、お互いをお互いの中に招き入れてきている感じだ。
 シュローやナマリと混じり合いきれなかったからこそ、真っ当ではない手段でファリンを復活させる旅に出た彼らが、同じ釜のメシをかき込み、生きたり死んだりする中で距離を縮めていくドラマ、その結果仲間の”らしさ”を自分に引き寄せていく様子が、やっぱりこの話の見どころだなと思う。
 それはしみじみ心を打つ感動だけでなく、どーしょもない笑いとシニカルなツッコミにも表れていて、パーティーの紅一点が漬物石やら邪教の偶像やら、ロクでもない扱いされてるのも、深まった親しさ故だろう。
 回復魔法レッスンでドキドキとか、ラブでコメった香りのある描写とかもあったのに、結局すンゴイ顔で石になってんだから、マルシル……つくづく綺麗なままでは追われない女よ。(好き)

 

 向き合い混ざり合うのが味方との感情だけではなく、敵たるモンスターにも一種の敬意が向けられている。
 ドライアドの雌花はまだ未熟な仲間を育むためにライオス達と戦うが、これは若いものに過保護なセンシの様子と、奇妙な共鳴を果たす。
 人間とモンスター、安易な共存を阻む壁は確かにあるのだけども、響き合うものも確かにあって、奴らだって生きようとして必死にもがき、食って生殖して死んでいく。
 そこに経緯を持っているからライオスは魔物に興味を持って知識を蓄え、それがモンスター殺しの大きな武器となり、糧を得る助けになっているのだから、迷宮の輪廻はなかなかに不思議だ。

 ヒューマノイド同士だからって全部が解るわけでもなく、過保護ドワーフは眼の前のハーフフットが酸いも甘いも噛み合わけたオッサンだと知らぬまま、今更な性教育を真面目に始める。
 あるいはチルチャックが当て擦るのも当然の、激ヤバ黒魔術復活がどういう理屈で動いているのか、バチバチしつつも言葉で伝えていく。
 そういうすれ違いと触れ合いを笑える一幕と積み重ねて、知らない同士が解り合って、混ざり合っていける愉しさが、確かにこの迷宮には息づいている。
 人間が生きる場所、変わっていける現場として”ダンジョン”を描いていることが、冷たいハック&スラッシュの外側にお話を連れて行っているのだと、改めて感じるお話だった。
 待ってましたのドタバタ冒険コメディの合間に、マルシルの魔法と迷宮に関する講義だったり、センシが過剰に食と若者に思い入れてる様子だったり、今後に活きそうなクスグリが好きなく埋め込まれているのも、巧くて良いわな。

 

 自在に姿を変える迷宮に翻弄されつつ、しぶとく食って満たされて、まだまだ俺達負けてないぜ!
 好ましい逞しさで主役健在をアピールしてくれた物語は、こっからどう転がっていくのか。
 次回の冒険も、とっても楽しみです!

花野井くんと恋の病:第2話『初めての彼氏』感想ツイートまとめ

 花野井くんと恋の病 第2話を見る。

 お試しお付き合いを始めた生真面目ガールと純愛ボーイ、”終わり”が近づく中でお互いを知ったりすれ違ったり…というお話。
 純粋すぎて微笑ましい二人の気質が良く分かる話運びで、『このお話ってこういう感じなのね…』という自分的な納得がしっかり育まれ、とてもありがたい”第2話”だった。

 やっぱこういう、自分なりの手応えみたいのを感じれる話数が早い段階で来てくれると、物語と付き合いやすくて大変やりやすい。
 過剰に理性的で正しい女の子と、過剰に情念的で過つ男の子の、適正バランスを探り探り間柄が深まっていく、コミュニケーションとコンセンサスのお話。
 それが現状、自分がこの作品に見ている物語の全体像である。

 

 極めて清く正しく…高校生にしては幼くも見えるほたるちゃんが恋を知ろうと、カッチリ手順建てたアプローチを手渡してくる中で、花野井くんは自分を突き動かす過剰なパッションを適切に抑え、重すぎず愛しすぎずな普通の間合いを探ろうとする。
 それは与えすぎて衝突ばかりしてきた少年が、ギブ&テイクのお互い様な関係性を学んでいく、健全で健常な成長の物語だ。
 しかし花野井くんだけが矯正されるべき歪みを抱えているわけではなく、ほたるちゃんも正しすぎてどっかおかしい。
 このズレが、チャーミングな太眉可愛げになっている所が強いわな。

 理屈や正しさじゃ割り切れない、不定形の情動。
 これに突き動かされるから人生揺るがすほどの速度が出る”恋”ってものを、現状ほたるちゃんは頭で考えて言葉で噛み砕こうとしている。
 花野井くんはそんな恋人(お試し)のスタイルを尊重しつつ、ドロドロネバネバした動物的な感情を原動力に、突き進みたい気持ちを抑え込んでいる。
 過剰にロゴス主義な少女と、過剰にパトス主義な少年の凸凹コミュニケーション物語としてお話を見ると、筆記言語でお互いをわかり合おうとする『してほしいことノート』が顔を出すのも納得で、なかなか面白かった。
 それは理屈上は正しいけども、正しすぎて形になりすぎて、恋にはちょっと不似合いだ。

 世に中には正しくもなく、言葉で切り取れもしない”何か”が確かにあって、ほたるちゃんが現状親しみがなかろうが、それだけしか感じられず突っ走るしかない動物もいる。
 どころか、瞳の奥に炎を宿した愛の獣となって、ツラがいい彼氏候補として隣に立ってる。

 自分が暗い森に迷い込んだ赤ずきんちゃんだと気づかぬまま、無自覚アプローチをガンガン繰り出してくるほたるちゃんに『ヤバいって!!』とハラハラしてたら、遂に導火線に火が付いた花野井くんが獣化カマして次回に続いた。
 本物のLove Beastだったらあっという間にバクバクイッてたと思うので、花野井くんは十分以上に紳士的だし優しい子だなぁ…。

 実際に行動に出て相手を求めるのが花野井くんなので、彼が過剰にアクセル踏んだ感じにもなってるけども、自分には分からない情動優先主義に無防備に踏み込んで、ヤバい行動してるのはほたるちゃんも同じで。
 時に挑発的で、加害的にすらなってしまうお互いの在り方を、どうこすり合わせて解り合っていけばいいのかは、まだ高校生でしかない彼らにとって、なかなか難しい課題だ。

 

 というかそういう事をモラトリアムの檻の中、縛られ守られながら学んでいくのが思春期なのだろうから、クリスマスまでの時限恋愛は正しく、いい課外授業なのだろう。
 ほたるちゃんは『解らない』という自分の現状を、ちょっと特権的にブン回し過ぎてる。
 標準よりちょっと愛が多すぎる花野井くんにとって、もっと思い切り、もっと過剰に叩きつけたいものがいっぱいあるはずなのに、ニコニコ笑いながらほたるちゃんの正しさと無理解を受け入れて、理性的な彼氏を頑張っている。

 それは見た目よりずっとアンバランスで、アンフェアな関係だ。
 長続きしないだろうし、実りも少ないからどっかで、受け入れてもらう側と我慢する側を入れ替え、相手の世界を覗き込み真実理解しようと努力する必要も出てくる。
 お試しで終わらない、正しくも言葉にできるわけでもない気持ちが胸の中確かにあるなら、なおさらだ。

 ほたるちゃんは賢く優しい人なので、花野井くんを追い込んだのが誰か……眼の前のイケメンが突然獣になった衝撃を受け止めたうえで、自分で分かるとは思う。
 というか分かってくれないと、花野井くんの努力と釣り合いが取れない。
 マジ頑張ってると思うよぉ花野井くん…あんな太眉天使(声帯:花澤香菜)がプラプラプラプラ、無防備に揺れてるなか紳士ヅラするのは大変だよぉ…。

 

 とか書いたけども、ほたるちゃんが花野井くんが欲しかった正しさをちゃんと手渡している様子は、どっちが早く待ってるかレースでちゃんと描かれてもいて。
 ここまでの恋で、花野井くんは自分が待ってるのが当たり前、与えて当たり前、搾取されて当たり前の、アンフェアな常識を身に着けてしまっている。
 でも誰かと善く付き合うのなら、そういう一方通行はやっぱ良くないもので、ほたるちゃんは花野井くんのパトスは実感できないながら、それが溢れた彼の行動を鏡合わせに真似してみて、寒空の中震えながら与えるものの心を理解しようとする。
 そうして正しく寄り添って、フェアな関係性を気づこうとする良さと強さは、ほたるちゃんが過剰に正しいからこそ生まれるものだろう。
 正反対に見えて、眼の前の相手を尊重し大事にしようとする気持ちは同じだから、時にゴツゴツぶつかり合いながらも解り合うことは、そこまで難しくない…と思う。
 ここら辺の空気の良さ、上手くいきそうな期待感は、お話とキャラが持ってる強みかな~と感じる。

 世間的にどうしてるとか、そうするのが普通とか、そういう恋のレトリックを横に置いて。
 お互いの歪さを噛み合わせたうえで、たった一つの冴えたやり方を分かり会えない同士、なんとか見つけていくのが恋含めた人付き合いの根本ならば、正しすぎる少女と愛が強すぎる少年は、お互いをよく見る必要がある。

 そういう相互観察、相互尊重への道に、可愛らしく好ましい子ども達がおっかなびっくり、時に笑える不器用さで進んでいく様子は、とても良い。
 未熟な雛が自分たちらしい飛び方を、二人三脚で頑張って探している手触りがあるのは、真心があって好きだ。
 色んな意味で可愛い話なのは、俺の好みですげーイイね。

 

 というわけで、ほたるちゃんが体現する正しいロゴスが世界を覆い尽くすと思いきや、花野井くんが抑え込んでいたパッションが抑えきれず炸裂する回でした。
 花野井くんの情欲がメラメラ燃えている様子を書くことで、そんなに強く求められるほたるちゃんがどんだけ魅力的なのか、逆位相から描き直す感じもあって。
 この男側から伸ばす手の力強さは、ロマンスをロマンスたらしめる重要要素だと思うので、バキバキに青筋立ってて良かった。
 欲望の赴くまま噛みつき抱き潰して、相手も自分も傷つけるルートに突っ走らない花野井くんは、本当にいい子だなぁ……。

 突きつけられた思いは、クリスマスにどう咲くか。
 次回も楽しみ!

プロセカイベスト ”Knowing the Unseen”感想ツイートまとめ

 プロセカイベスト”Knowing the Unseen”を読む。

 新章になっていらい初の絵名イベであるが、承認欲求モンスターから泥まみれの旅路を経て、一歩ずつ夢へ真の自分へと進み出してきた彼女の新たな一歩が、夜闇に眩しいエピソードとなった。
 絵名はプロセカ全キャラで一番、嫌に思えたり耐えられなかったりするものこそが、自分を磨き上げて本当に生きたい場所へと近づけてくれる、人間の矛盾と向き合ってるキャラだと思う。
 安楽で心地よいものに身を預けているだけでは、辿り着けない場所が確かにあるのなら、苦しかろうが行くしかない。
 まふゆが母の繰糸に身を預け、窒息しかかって引きちぎったように、絵名もネットの安くて危うい承認に溺れかけていた所を、魂の奥底に燃えるクリエーター根性ボーボー燃やし、自分の空疎を埋めてくれた仲間と並び立てる自分であるために、あるいは真実自分なのだと思える自分であるために、甘い毒より苦い薬を選んできた。

 それは自己否定と再構築を繰り返す、とても苦しい新生の歩みであり、『これが自分だ』という思い込みをベリベリ引っ剥がし、その奥に何があるのか見つめ直して、必要だと思えるものを痛かろうが辛かろうが新たにつけ直す、極めてストイックな道だ。
 この厳しい道を己に貸した彼女が、身近な誰かにとても優しい自分をどんどん見つけれているのが、俺にはとても嬉しかったりする。
 キッツい指導ばっかりする雪平先生にムカついてばかりだった絵名は、自分がまだまだ未熟である事実を真正面から見据えた結果、彼が指摘する事実を受け入れられる素直なタフを自分のものにして、上手くなるための最短の回り道を進んでいる。
 自分に何が足りないのか、見据えて正し間違えて改める。
 それは言い訳が効かないストレートな道で、そういう所を突っ走った先にしか、アートを仕事として一生やっていく生き方はない。

 

 このシビアさは、他ユニットが(色々凸凹はありつつ)”学生”の次の生き方として、アイドルなりパフォーマンスユニットなりバンドなり、アートを生業とする職業へ着実に近づいているのと結構異なる。
 絵名の物語において、まだまだ絵に値段がつく段階は遥かに遠く、それを叶えるための事前準備…の事前準備として、美大入学を目指して今回、本格的に進路を定めることになる。
 この地道な難しさはニーゴ特有のもので、華やかさの少ないモノトーンで描けばこそ生まれるリアリティを、プロセカ全体に担保してくれている感じで好きだ。

 人生灰色、甘くはない。
 それでも暗闇の中に確かな光があって、自分がそこにいて良いのだと思える音楽との出会いがあって、敬意と友愛を心の底から手渡し受け取りたくなる友達がいて、消えたい死にたい以外なかった暗闇から、ズルズル自分の体を光の方へと引っ張っていくことが出来る。
 そういう事を色んなキャラ、色んな物語で積み上げてきたお話において、かつて絵名のプライドや夢をぶっ壊した父もまた、同じでこぼこ道を進む同志だったと解るのが、今回の物語だ。
 憧れたからこそ憎んだ身近な誰かが、実は自分と同じ塗炭の苦しみにいて、自分とは無縁の高みを浮遊しているようでいて、同じ闇を見ていた。
 その闇に一個だけ輝く眩い牡丹の花が己であり、自分が憧れ焼かれた光はまさに、東雲絵名自身の反射光であったのだと思い知るのが、今回のエピソードである。

 

 それは許せなかったはずの父を許し、神様の位置から対等な人間、尊敬できる先輩へとポジションを変える、家庭内融和の物語でもある。

 父はかつて絵名をズタズタにしたときと同じく、言葉少なく不器用であるが、絵名の方がニーゴの仲間と進んだ旅路の中で己を育て、かつて見えなかったものを解れるようになっている。
 身近な友達の苦しさと、それを救いたいと思える自分の優しさや強さと、ちゃんと向き合った結果、闇の中の花が何を示しているのか、読み直す眼を手に入れている。

 それは作家に必要な審美眼でもあり、自分が何を描くのか見据えたうえで絵筆を取る、画家としてのコンセプトが鍛えられている証拠でもある。
 愛されたい、チヤホヤされたい、何者かでありたい。
 絵を通じて絵以外の何かを求めていた、幼く切実な時代から、東雲絵名は確かに変わっている

 今回雪平先生や父の助けを借りて辿り着いた、絵を描く以外無い己への確信。
 それは父の側で父に憧れた、血と思いを確かに引き継いでいる自分の肯定でもある。
 傷つけられたしムカついたけど、確かに自分はこの絵に憧れ、この人に愛され、この人の娘であり他ならぬ自分自身として、今ここにあるのだ。

 そうして過去と現在の先にある、苦しみを超えて絵をやり続ける未来へと、自分を投げかけるしか無い自分を、絵名は震えながら誇りに思う。
 それは憧れと憎しみが相反しながら同居していた、父への思いを真っ直ぐ見つめたからこそ立てる地平であり、そういう決断だけがモノクロの世界で夢を照らすのだ。

 

 『絵画を読む』という高度な批評行為を、チヤホヤされる以上の切実さで絵を描く必要がある絵名は己のものにする必要があり、今回雪平先生が用意した課外授業の中で、適切に補助線を引きながらそれを果たしていく。
 画家本人の家族である絵名は闇の中の花が何を示しているのか、何しろ自分自身がモチーフなのだから”正解”に一番近い位置にあり、己を絵以外で語れない不器用な父が、どんな歴史を経てその絵を書いたのか、雪平先生経由で教えてもらえる立場にある。

 この文脈的アドバンテージがない”読者”が、己の感性のみを頼りにあの絵をどう読むのか、奏のサイドストーリーで提示されているのも面白い
 作者の家族であること、モチーフそのものであること、同じ絵画という表現を身に着けていること。
 絵名は絵画の読解者としてより精密に”読む”ヒントを多数持っていて、それを適切に使うことで父の苦悩を、その中で己が果たした意味を読み解き、コンプレックスの先へ進んでいく。

 その家族的な物語の外側に奏はいて、ただただアーティストとして卓越した感性(これが何も見えなくなっていた絵名の灯明として、心に届く歌をかつて作ったのは面白い共鳴だが)のみで、素直に絵画を読む。
 娘を守る父として、画家ではなく裸の人間として生きるための遺書。
 そこに在る愛という名の個人的執着を、知らず見抜いてらしからぬ曲を作る。
 よりにもよって望まぬ父殺しを果たし、メサイア・コンプレックスに呪われた奏の曲は、誰かに執着してはいけない透明な広範さを持っている。
 それは誰より救われたいはずの奏のエゴを脱臭し、罪人にして救世主として誰かを救い続ける責務が、必要とする普遍性だ。
 苦悩の中の透明な光へと、己を変じるための音楽は確かにウェッブを通じて一人の少女に届き、救った。
 その絆があればこそ、今回奏は夜闇の牡丹を見て曲を作る。

 巨大すぎるエゴが凶器になって、誰より愛する娘を引き裂いてしまった父は、そういう透明さを絵に込めない。
 あらゆる色合いが混じった黒を夜闇に宿し、一番身近な救いを花に託して刻みつける。
 同じように救済を夢見つつ、奏と父は透明と漆黒、真逆の色合いで己を描く。
 しかしその根っこにあるものは同じ花…痛みと愛であり、その共鳴が家族の個人的な秘密をひょいと飛び超えて、奏に絵画の真実を直感させ、創作させる。
 そこには奏が持つ卓越した直感と共感…アーティストとしての才能と業が垣間見えて、なかなか面白かった。

 

 さてはたして東雲絵名に、敬愛するKと同じ程の芸術的視力があるのか?
 ない、と彼女は自分を評価しているし、確かに家族として特権的に与えられた補助線なしなら、あの絵を奏と同等以上に読み込み、人生を前に進めていく起爆剤にすることは困難だ。
 しかし、事実として絵名はあの絵を読んだ。
 タイトルにあるように、通常見えない絵のタッチ、作家史的変遷、数ある作品の中での卓越性を読み切って、言葉少ない父が本当に言いたかったことを、自分が憧れの人の最愛であるという確信を、確かに読み取ったのだ。
 そう出来るまでに物語の開始から、ここまでの話数が必要だった…という話でもあろう。

 例えば最初のエピソードで父との桎梏をある程度乗り越えてしまった冬弥などに比べると、回り道の多い歩みであったけども、東雲絵名の旅路が無駄だったとは、誰にも言わせない。
 それぞれのユニット、それぞれの人間に個別の道のりがあり、歩み方があり、暗さも険しさも違う道のりの中で、確かにたどり着く境地がある。
 そのカラフルな多彩さを描くために、プロセカには多数のユニットとキャラクターがいるのだろうし、絵を”描く”ことに呪われていた彼女が絵筆を一旦手放し、絵を”読む”行為を通じて画家として、人間として、娘として大きな一歩を踏み出した今回のイベストは、その豊かさをとても良く奏じていると感じた。

 

 絵名が主役になる話は彼女のセルフイメージを反射して、弱くて惨めな自分を呪いながら歯を食いしばって進む、泥だらけの話になりがちだ。
 しかし彼女の主観では大したことも出来てねぇ、何者でもねぇ情けない女の子がどれだけ、違う色合いの闇に沈みかかっている友達の手を引き、支え、静かに見守れてきたのか、既に描かれている。
 絵名がなかなか認められない東雲絵名の凄さを、多角的に客観的に読めるのもまた、色んな人がいて色んな物語が積み重なる、プロセカの良いところかなと思う。
 自分自身の影にあって見えない光を、ちょっと離れた場所から確認し直す。
 ”描く”から”読む”へと立場を変えさせることで、画家としての絵名を羽化させた雪平先生の名指導と同じ作用が、プロセカが己を語るシステムと構造自体に組み込まれているのが、なかなか面白いところだ。

 

 今回重要なモチーフとなる牡丹が、花言葉としては全然ストーリーにハマっていないのが、俺はすごく好きだ。
 富貴、壮麗、恥じらい、王者の風格。
 どれも、芯を得ていない。

 それはつまり今回描かれた牡丹は、花言葉というロゴスの額縁に閉じ込められた死花ではなく、ただただある父親の目の前に咲いた生きた花、生きればこそ眩いたった一つの花であった、ということなのだろう。
 花は、そこに宿る生命は、言語的必然を超越してただただ底にあり、その存在に圧倒され共鳴したからこそ、父は画業最後に己の全てを刻み込む題材として、それを選んだ。
 選んでやり切ったからこそ、絵を捨てられない自分が見えた。

 彼もまた花であると、己が描いた花に教えられる。
 その構図は彼の娘が、己の存在をモチーフとした絵画を通じて、己と父の関係性を再構築し、自分自身を見つけ直した歩みと重なる。
 そうやって乱反射する闇の中の光を、誰かの中の自分に、何かの中の共鳴に見つけながら、人間は一歩一歩、そうなるしかない未来へと己を進み出していく。

 この切実さと祈りは、ニーゴの物語を貫通する一つの柱であり、今回絵名が見えざるものを読み取ったことが、彼女の仲間たちの未来を、また助けていくだろう。
 あれだけ憎んだ父こそが、己を育み作り上げていた事実に、率直に力強く向き合う姿勢は、遠い遠い朝比奈家や宵崎家の家族史の落着へ、確かな光を伸ばすだろう。
 そういう、優しく強く賢い存在へと東雲絵名がどんどん近づいていく姿が、俺は何より眩しい。
 とても良いお話で、凄く面白かったです。

忘却バッテリー:第1話『思い出させてやるよ』感想ツイートまとめ

 忘却バッテリー 第1話を見る。

 原作は”SPY×FAMILY”と並ぶジャンプ+生え抜き、脱力系ギャグと熱いスポ根ど真ん中が程よく入り混じった、とっても良い漫画である。
 笑いの波長が合わないとなかなか食べにくい作品でもあるのだが、原作の魅力をしっかりアニメにチューニングする翻訳能力が冴え、大変良い感じの第1話だった。

 ボケ担当のマモちゃん、ツッコミモノローグ担当の梶くんの芝居が大変良い感じで、声優力を最大限活かす形で、アニメとしてのストライクゾーンにしっかり収めてきた印象。
 『声がある』はアニメの大きな強さなので、こういう戦い方はアリアリだと思う。

 

 スジとしてはかつて数多の球児の心をへし折ってきた怪物バッテリー、その捕手である要圭は記憶喪失によりかつての智将っぷりに疒が乗っかる痴将に落ちていた。
 高校では断固野球NG! …と思っていたが、運命は強い引力でもって少年たちをダイヤモンドに惹きつけ、新たな戦いが始まる…といった感じ。
 クセが強く、その癖奥底をなかなか見せない圭ではなく、素直で分かりやすい山田くんが語り部になって天才たちの領分を、噛み砕きつつ伝える構成が秀逸。
 主役と語り部を分けることで、他人の人生歪ませるほどの才能が持つべきミステリアスを担保したまま、話がグイグイ進む。
 山田くんが生み出す、素直な好感もグッド。

 

 

 

画像は”忘却バッテリー”第1話より引用

 圭が特別でいられるのは、彼にしか投げない葉流火が本物の怪物だからだ。
 この怪物感は冒頭、爆心地のような入道雲が真夏の強い光、それが照らす濃い闇の中立ち上るカットで、素晴らしく表現されていた。
 この絵が出てきただけで、かなり”勝った”感じがあった。
 プレイング一つでお山の大将のアタマを砕き、数多の屍を積み上げていく残酷な刃を、最強ピッチャーは否応なく持つ。
 その凶暴さを意識させないよう、かつての圭は葉流火を自分専用のピッチングマシーンへと変えていった。
 その関係の歪さも、この不気味な爆煙にはしっかり宿っている。

 山田くんを壁役に、スーパーコンビ颯爽登場! という感じで気軽にまとめたスタートだが、学生野球界が孕む残酷さに真っ向から向き合うこのお話、ホラーテイストがしっかりしているのは大事だ。
 なのでマジにやっていい場面でしっかり、影の濃い怖さを刻んできてくれたのは、今後の描写に期待が持てるいいスタートだった。

 内気な少年がロボットとなり、明るいバカが冷たい怪物になってしまう、才能と自我をすり潰し合う現場の血みどろ。
 『パイ毛~~』と戯けるスベり加減が、ありがたく感じるようなそのヒリツキを、早いことアニメでも原液摂取したい気持ちだ。
 ここら辺、山田くんの人徳で飲みやすく薄まってる一話だったな…

 

 葉流火の投球は、敵に回れば心とキャリアを壊す凶刃となるが、味方になれば一緒にプレイしながらも憧れてしまう、本物の才能だ。
 ヘロヘロボールを侮られた時、山田くんが見せた悔しさはその眩しさを誰より早く見抜いて、一緒にプレイする仲間として近づいていく優しさがあって、とても良かった。

 圭への過剰な依存、人間が持つべき柔らかな感覚の欠如。
 葉流火の危うさもフラフラ揺らめきつつ、ただ残酷なだけではない暖かな熱が既に感じ取れて、野球”部”アニメとしても良い出だしになっていた。
 いかにも引き立て役なクソ先のデビューが、彼らの先を知っていると微笑ましく愛しくもあり、アニメがどう描くか楽しみだ。

 何もかも白紙になっても、葉流火と野球をすることは圭にとってはとても大きいことで、圭がミットを握ってくれることで、葉流火も才能を活かすことが出来る。
 麗しい比翼の鳥が青春を飛ぶ様子が、ヘロヘロとズバットを見事にかき分ける良い作画で元気だったが、そこにはとてもグロテスクなものが複数埋まっている。

 自分の中から湧き出、あるいは勝手に世界を彷徨う怪物に負けず、なぜ一度諦めたはずの夢にしがみつくのか。
 そこら辺の熱量を泥臭く燃やすのも、このお話の良いところだと思うので、葉流火にぶっ潰されて性格歪んだ元エースたちが出てくる次回以降、なかなか楽しみだ。
 『残酷と純粋』てのが、結構大事なテーマなんだな。

 

 おバカな軟体生物に見えて、ダチが嘲笑われてたら本気になっちゃったり。
 クールな怪物に見えて相当アホで、相当野球が好きだったり。
 お人好しな凡人に見えて、譲れない熱さを胸に秘めていたり。

 色んなギャップを魅力的に燃やし、ガンガン物語を加速させていく力が強いこの作品。
 声優陣の芝居、競技作画の仕上がりが大変良い感じで、アニメでもメリハリ効かせて楽しませてくれそうなのは良い。
 まだまだチーム作りが続き、本格的な試合は先になりそうだが、バコバコやり合った時どんだけ暴れるか、ワクワクする期待感を既に高めてくれているのはいい。
 ボケる時もマジな時も、どっちも全力振り切るのが良いよなやっぱ。

 

 というわけで、原作の魅力をしっかりアニメに落とし込み、アニメだからこその強みを存分に発揮してくれた、大変良い感じの第1話でした。
 作品全体のガイドラインを引く役の、山田くんのモノローグが大変塩梅良く、コミカルに弾みつつも情感がある作風を、良く伝えてくれた。
 梶裕貴…やっぱ好きだ…。

 こっから痴将爆誕の裏側とか、中学時代の秘められた残酷とか、色んなミステリが暴かれながら新たな青春物語がグラグラ煮立っていくわけですが、まー面白くやりきってくれるでしょう!
 そういう信頼感をしっかり打ち立ててくれるスタートで、大変良かったです。
 次回も楽しみッ!!

響け!ユーフォニアム3:第1話『あらたなユーフォニアム』感想

 かくして、黄前久美子最後の一年が始まる。
 遂にユーフォがTVシリーズに戻ってきた、万感の最終章開幕である。
 大変良かった。

 アンサンブルコンサートで見せたシャープな切れ味と馥郁たる豊かさはそのままに、いよいよ本番というピリッとした緊張感、二年間の物語を経てきたからこその様々な蓄積、新たに何かが始まる期待感と不安が、どっしり腰を落として進み出す第1話にしっかり宿っていた。
 三年生となった黄前久美子と、彼女が率いる北宇治吹奏楽部がどんな朝を過ごしているのか、文字通り楽器の中へと潜っていく至福の冒頭三分間から、滝先生が新たな出会いを祝いでくれる幕引き……その先にある美しい闇の中の”新たなユーフォ”との出会いまで、感慨深く三期の実感を堪能させてもらった。
 色々あったが、音楽は続く。
 続く音楽の中で更に色々なことが起こるわけだが、悩みも苦しみも喜びも全てを一つの楽譜に込めて、どんな曲を描いていくのか。
 見届けさせて欲しいと、強く思えるスタートだった。

 

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第1話より引用

 というわけで、本格的な嵐は三人目のユーフォニアムとの出会いの後に回して、第1話は三年生の実感が未だ持てない黄前久美子が、それでも精一杯部長をやっている様子を丁寧に映す。
 その強がりや震えを画面と芝居にどっしり乗せて、彼女がそこにいる実在感を匂い立たせていく手際と細やかさは、今まで通り……あるいは今まで以上の鮮やかさであり、大変良かった。
 昨今色んなアニメで気合の入った光と影の表現が見られるが、ずっと前からそういう部分に全霊を突っ込んできた京都アニメーション、ユーフォ三期でも明暗の描き方は大変に鮮烈で美しい。
 時や場所、あるいはそこに立つ人によって様々に移り変わる光と影の変化を、丁寧に積み上げていく中で構築されていく、吹奏楽に高校生活を捧げる人たちの息吹。
 ただ美しくドラマティックなだけでなく、時の移ろい、季節の変化が確かにある時空間それ自体の手触りを再構築せんとする、軽やかな力みが25分の映像にみっちりと宿って、大変良かった。
 明暗が持つ様々な美しさを、黄前部長がヒーヒー言いながら”部長”頑張ってる一日追いかける中に刻んでくれることで、彼女なりの奮戦を世界全部が祝福してくれているような、暖かな気持ちになれたのは非常に嬉しい。
 俺は黄前久美子が好きだから、黄前久美子に優しくしてくれる世界が好きだ。

 部全体の舵取りや、低音パートの人集めに難しさを感じつつも、精一杯の背伸びをして夢を果たすべく決意に踏み出すときの、震える瞳のクローズアップ。
 それを際立たせるように、やや引いた距離から顔を映さず、青春の後ろ姿を日の移ろいの中で切り取ってくるカットも多くて、作中の遠近法が既に独自のテンポを生んでもいた。
 特に冒頭三分はどっしり腰を落とし、足がよく喋る”北宇治の朝”が元気に弾んで、大変良かった。
 BGMを殺して、学校に満ちる音を環境音としてしっかり効かせる演出も良くて、全国レベルの部活がバリバリやりまくっている学校特有の”色”みたいなものを、良く聞かせてくれた。
 憧れの視線で見上げられる高いレベルに自分たちを引っ張り上げつつ、等身大の震えや甘え、許されざるレベルのイチャコラなんかもしっかりそこにはあって、張り詰めたものと油断したものが、豊かに混ざり合う高校生活を感じ取れた。
 ドラムメジャーと部長という、部の真ん中を支える重大ポジションを任されてなお……あるいは任されたからこそ親友として共犯者として、とても近い間合いでじゃれ合う久美子と麗奈の姿は瑞々しく、二人なら大丈夫という安心感がある。
 ここら辺の空気が緊張の目標投票を乗り越え、滝先生の後押しで盛り上がった後に、陽の眩さを様々な色合いで描いてきたカメラが夜にフォーカスして、遠く聞いていたはずの”上手いユーフォ”を突き出してくる。
 安心したかと思えば不穏で、不安を乗り越える頼もしさも確かにある三年目の北宇治を、豊かにスケッチする出だしとなった。

 

 2年分の実績を経て、すっかり強豪大所帯となった北宇治吹奏楽部。
 ”誓いのフィナーレ”で色々バチバチやりあった一年共も、学年相応の頼もしさと親しさを手に入れてニ年生となり、懐かしくも新しい顔をたくさん見せてくれる。
 すっかり黄前姉貴一の子分っツラが板についた奏が可愛らしく、からかいとじゃれ合いを交えながら仲良く過ごすユーフォコンビは、麗奈とはまた違った間合いで繋がっている。
 劇場版でのバッチバチを見ていると、それあってこそ収まったこの距離感が大変心地よく、クセ強ながら可愛らしい低音ニューカマーの生きの良さもあって、全体的な雰囲気は前向きである。

 それもこれも、黄前部長が眠い目をこすりながら早起きし、自分の技量を磨きながら分全体に目配せして、色々頑張ってくれてるおかげである。
 ここまでの物語では先輩たちの頼もしさに甘えられる立場だったわけだが、此処から先は最高学年の孤高を抱えながら、部長の重責をなんとか乗りこなしていかなければいけない。
 その難しさを笑顔で隠し、『みんなの黄前部長』やってる久美子の姿も、またチャーミングで良かった。

 

 そういう立場を得たから久美子が今までから変わってしまったかと言えば、そうではない。
 葵ちゃんの退部トラウマをここまで引きずって、上ずった声で三年目の目標を皆に問う場面を見れば、ここまで物語を瑞々しく躍動させてきた、面倒くさく危うく美しい久美子の魂は変わらずの色合いであり、色んなことを乗り越えながら前に進んでいくのだろうと、こっから先の物語にも期待が持てる。
 久美子を取り巻くお馴染みの面々がどんだけ親しく、力みなく彼女と接してくれているかも描く今回は、彼女がけして一人ではないこと、ここまでの物語で生み出したものが豊かに育っていることも、ちゃんと思い出させてくれる。
 そういう『アンタの好きなユーフォ、全然活きてるよ!』ってメッセージが元気な第一話だったのは、ファンとしてとても嬉しい。

 今回のエピソードは強さも弱さも併せ持った、黄前久美子一個人の細やかな仕草にしっかり密着して、私人としての彼女の内側もこちらに見せてくれる感じだったが。
 他でもない久美子の頑張りもあって、北宇治は高校吹奏楽のてっぺんが狙える強豪校に育ったわけで、その部長ともなれば状況ごと必要な仮面を被り、後輩が見ていない場面でそれを外し、90人からの巨大組織を切り盛りしていく必要も出てくる。
 今後話の画角が切り替わり、黄前久美子の外側から見た黄前部長が描かれた時に、今回25分浴び続けた幸せな春のスケッチも、また別の顔を見せるのだろう。
 そういう揺れ動く未来への不安と期待も、再び彼女たちに出会えた喜びの中に確かにガリッと固くあるのが、なかなか面白いスタートである。

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第1話より引用

 夕焼けのオレンジと夜闇の紫紺が交わる時間帯に、久美子は”新たなユーフォニアム”に出会ってしまう。
 ここまで新部長の健気な背伸びと、前向きな空気を積み上げてきたサブタイトルの意味は不気味に反転し、待ち望んでいたはずの低音の仲間が何かを揺るがしかねない危うさが、新たな物語の幕開けを告げていく。
 今回どっしりと久美子の現状を描き、彼女なり頑張って部を全国に進めていこうと足掻く様子、それで足りなければ仲間や先生が補ってくれる姿を描いて、『ああ、今までのユーフォだ……』と安心したかったところで叩きつけられる、副題もう一つの意味。
 穏やかでゆったりした第一話の意味を、最後の30秒で一気に反転させて今後の物語に繋げるような、素晴らしい幕引きである。
 ここまで圧倒的な美しさで光り輝いてきた金管楽器の鏡面が、少し歪なフォルムでもって久美子の表情を照らし、青春絵巻に潜む怪物としての顔……思い返せば幾度も”ユーフォ”から飛び出してきた色合いを見せているのも、優れた表現だ。

 久美子と北宇治は、自分自身が積み上げ足場にしてきた物語の結果として、憧れられる強豪、社会的立場を持った先達になった。
 しかしこの最後の一年、物語のスタートを飾った『悔しくなれなさ』をダメ金の屈辱で塗り替えた後の物語において、何かが壊され曝け出され、新たに生み直される必要がある。
 やれるだけをやりきってなお、全国への扉が閉ざされるという結果が出てしまった三年目、何が足りず何を求め何を生み出せば、未踏のフィナーレへとたどり着けるのか。
 キャラとドラマが安らかな懐旧に包まれるだけでなく、傷つき壊されて始めてたどり着ける、とても”ユーフォ”らしい青春のど真ん中へ進み出すための起爆剤として、この美しい”新たなユーフォニアム”は大事な仕事をする。
 そう確信できる、鮮烈なる黒江真由のデビューであった。
 折り返しのタイミングで、姿は見えずともその音だけで実力を示し、『巧くなりたい!』という執念で前に進んできた久美子が無視できない存在感を不気味な予言のように、先んじて描かれていたのが良いよなぁ……。
 アンコンから続いてきた、幸せで不安定な揺籃の日々が、これから終わっていくのだ。

 

 

 というわけで堂々の横綱土俵入り、音楽と青春と女女が渦を巻く2024春クールに鮮烈にユーフォと京アニを刻みつける、美しい第一話でした。
 やっぱ俺……本当に好きだわ……。
 美麗であることがもはや鑑賞されるための前提条件となった、スーパーリッチな深夜アニメの現状においてなお、やっぱり京都アニメーションという制作集団が生み出す映像は別格に美麗で、幸せで、残酷だと思えて、とてもありがたかったです。

 こっからどういう物語を描いていくのか、心から期待し、作品の凄みに飲み込まれないよう腹を固めて、見ていきたいと思います。
 次回も楽しみです。