- ■はじめに
- ■第12話『ツエェェェ!キュアスカイ対カバトン!!』
- ■第16話『えるたろう一座のおに退治 』
- ■第17話『わたせ最高のバトン! ましろ本気のリレー』
- ■第23話『砕けた夢と、よみがえる力 』
- ■第28話『あげはのアゲアゲファッションショー』
- ■第45話『アンダーグ帝国の優しい少女』
- ■第49話『キュアスカイと最強の力』
- ■番外 映画『プリキュアオールスターズF』
■はじめに
この度最終回を迎えた、”ひろがるスカイ! プリキュア”。
全50話のエピソードの中から、特に僕が好きな話数7つを上げて、改めて感想を描いていこうと思います。
一年間の長きに渡り、強く正しく優しいヒーローであることの意味、物語であり闘いでもある人生をどう進んでいくのか、自分たちだけの描き方で強く刻んできた作品に、思いを馳せる助けになれば何よりです。
好きだ、ひろプリ……。(最後の感想執筆を前に、今一番素直な感想)
■第12話『ツエェェェ!キュアスカイ対カバトン!!』
50話の放送を終えて各話リストを見直してみると、とにかくゆったりと進んだ序盤戦だった。
敵サイドの描写を圧迫することで生まれたスペースに、異世界人で快活なソラちゃんと地球人で控えめなましろちゃんの出会いを落ち着いて並べ、正反対に思える”ふたり”が出会ったからこそ生まれる交流と変化を、ゆっくり描くスタートに、満足と同じく当惑は確かにあった。
敵さんの事情が一切明かされぬまま、理不尽かつ身勝手な暴力の象徴として押し寄せてくるカスブタのやりたい放題は、しかし自分としては結構いい塩梅に飲み込めるものであり、それはひとえにカバトンというキャラクターの憎たらしさと奇妙な愛嬌ゆえだったと思う。
彼が体現していた他者への拒絶、弱さへの蔑視と憎悪はなんか話が通じそうな剽軽ととなりあっていて、しかしブタが笑えるやつだからってやってる極悪非道が手加減されるわけでもなく、妙に身近でおぞましい”悪”の強さと弱さを、上手く体現してくれていた。
1クール目の終わりになるこのお話で、ソラちゃんの正道に叩きのめされる形でカバトンは表舞台から降り、彼なりの紆余曲折を経て人形を『可愛い!』と他人の前で言えて、誰かのために傷を引き受ける存在になっていく。
その過程を物語の中で見たい気持ちは確かにあるのだけど、そう思えるだけの名優として頑張ってくれたのは、間違いなかったなと思い出す。
敗北を認めず、異質な他者に学ばないカバトンの狭量さは普遍的かつ現代的だと思えたし、個人的な興味(というか問題意識か)とも響く造形・テーマ性であったことが、ぜーんぜん掘り下げられない”悪役”をそれでも、見つめ続ける姿勢に繋がってもいた。
ブタがいたから、面白いひろプリだった。
確信をもって、僕はそう言える。
■第16話『えるたろう一座のおに退治 』
1クール目の曲がり角を駆け抜けても、ひろプリはとにかく敵の内情や彼らが暴力と排除に押し出される背景を描くことなく、虹ヶ丘邸というアジールにクローズアップしていく。
”ひろがる”をタイトルに冠しつつこの狭さと深さを選んだことを、物理的ではなく精神的、人間的な広がりを追い求めた旅として今は納得もしているのだけど、同時に家単位に限定していろんな出来事を積み上げていたことが、独自の手触りを生んでいたとも思う。
僕はひろプリ全体に漂うのんきさというか、浮世離れして善良である所がすごく好きだ。
赤ん坊も中学生も成人も、異世界人も普通の女の子も一緒にご飯を食べ、同じ屋根の下で眠り、日々楽しいことを共有して生きている。
彼らが過ごす当たり前の日々の、当たり前ではない輝きで満ちた空気とどっしり向き合っていたのは、ひろプリの長所だと僕は思っている。
このエピソードはとにかくラストが良くて、血の繋がりもないまま運命に導かれて家族となった皆が、夕日の土手を”ももたろう”を独自のアレンジを加えつつ進んでいく場面が、なんとも美しい。
それは一年間に限定された特別な時間で、過ぎ去っていくことを自覚することもなく幸福に浸りながら、彼らは彼らだけの物語を編んでいく。
なんてことない、闘いも宿命も遠い場所にある当たり前の景色の中、一緒に笑った思い出。
それが彼あの人生を導いていく、かけがえのない指針になるのだという納得が確かにあって、凄く好きだ。
それは、確かにあったのだ。
後に作品を支える大きな背骨になる、ましろさんの”絵本作家”という生き様が静かにエンジンをかける回でもあって、『一人の少女が人生をかけるに値するほど、物語は身近に美しく私達の側にある』と初手で描けていたことが、後に彼女が未来を選ぶ時の納得に繋がってもいる。
■第17話『わたせ最高のバトン! ましろ本気のリレー』
ひろプリは虹ヶ丘邸という家、スカイランドという社会の二元論で基本回っている話で、そこからはみ出した別の社会組織に対する描写は、あまり多くはない。
それは赤ん坊であるエルちゃんにフォーカスし、主役たちの狭く強靭なサークルで彼女を守り育もうとしたた結果だとは思うが、ソラちゃんとましろさんは学校に通う中学生であり、家と異世界だけで世界が構築されているわけではない。
あまり出番が多いわけではなかったソラシド中学だが、しかしこのエピソード一つで二人の学園生活をある程度以上描けてしまっていると、思える程度にいい話であり、大変に好きだ。
リレーが早く走れるの走れないの、大人になった今となってはどうでも良く思えることが、人生の一大事である季節。
そこに溢れている切迫感が、明暗のクッキリした画面づくりの中からしっかり感じられ、自分ができないことにも向き合わされる(が、必要なフェイルセーフはしっかり配備されている)学校という場がもつ、静かな峻厳が運動会に際立つ回だった。
『頑張って練習して勝ちました』という、安定してありきたりなラインに話を収めるのではなく、自分が転んでも勝ってしまった事実に打ちのめされ、上手くやって勝ちたかった自分の陰りに引きずられるましろさんと、その手を取りつつその影に踏み込みきれないソラちゃんをちゃんと描いたことで、人間が人生の色んな場所で突きつけられる、つまらなくて切実な重さを変身ヒロインが確かにもっていると、思わされる日常回だ。
こういう場面での手応えが、後々世界を揺るがすほどの宿命を前にし、傷を受けてなお立ち上がる非日常の闘いで何を選ぶか、それを飲み込めるかにも繋がってくる。
思いの外クレバーなソラちゃんコーチに寄り添われて、走りたい、勝ちたい自分を見つけていくましろさんの歩みに、すごく”生きている”という感覚を覚えて、このあたりから虹ヶ丘ましろに惹きつけられていた感じがある。
■第23話『砕けた夢と、よみがえる力 』
そんな虹ヶ丘ましろ、ヒーロー覚醒のお話である。
というかソラちゃんの背中を追って自分なりのヒロイズムを探っていたましろさんが、強さと優しさのプリズムを心の中から取り出す回……か。
ドラマの流れとしてはソラちゃんに力点があるのだが、一度砕けた彼女の夢と強さを、それに憧れ愛したからこそ信じ続けるキュアプリズムの在り方が、虹ヶ丘ましろの言葉が奮い立たせ、涙に震えながらももう一度英雄を演じる生き方に飛び込む姿には、普通の女の子がもってる普通じゃない強さがまばゆく反射している。
ひろプリは自分とは違う誰かが隣りにいてくれることの意味を、年齢も性別も出身社会もバラバラな連中を集める中で描いていった話だと、個人的に思っている。
ソラちゃんはとにかく好きになったものの良いところを見つけ、言葉にして手渡すのが巧い人であり、『私なんて……』が口癖なましろさんがどれだけ凄いのか、どれだけ自分を素敵な気分にしてくれるのか、ここまでの話数で山盛り伝えてきた。
その気取らぬ愛が鏡になって、ましろさんは命がけの窮地でも自分を信じて立ち、そう思わせてくれた彼女のヒーローが必ず戻ってくるのだと、本人よりも強く思えたのだろう。
僕がひろプリに感じている、日常と非日常が連動しながら支え合ってる構図の良さがこの回でのキュアスカイ再起には溢れている。
当たり前の日々の中で育んだものがあったからこそ、ヒーローという生き方を投げ捨てて大事なものが壊れる寸前、誰かの瞳に写った自分の未来をギリギリ、ツカミ直すことが出来た。
それはソラちゃんがあの時なりたいと思った自分を、より善い夢のカタチを諦めずにすんだということで、怪物や魔法のガワを取っ払ってみれば凄くよくある、人生の岐路だったと思う。
『ヒーローガールになる自分』という物語を、情け容赦のない暴虐にズタズタにされてなお、自分を満たしてくれるまばゆい光。
プリズムを追って戦場に戻るスカイの強さは、彼女個人で完結する孤独なものではなく、エゴが脆く崩れ去ってなお自己像を保ち、修復してくれる誰かの思いで成り立っている。
個人の意志や勇気を尊厳込めて描きつつも、それだけじゃ強くも優しくもなれない人の宿命を主役サイドから描いたこの筆は、徹頭徹尾他者を自分の中に入れず、孤独な強さだけを自分の支えに、暴力的な世界像に投射するダークヘッドによって、最終盤逆側から描かれることになる。
■第28話『あげはのアゲアゲファッションショー』
聖あげはが好きだ。(貴方もまた、そうであると嬉しい)
初の成人プリキュアとして鳴り物入りで登場した彼女は、ギャルキャラというキャッチーな装飾を自分の魂と上手く噛み合わせて駆動させ、自分もみんなもテンション上げて、明るく楽しく生きていくために日々を頑張っていた。
初変身以来ずっと、既に夢を見つけ迷わない成人としてのスタンスを崩すことなく、悩める子どもたちみんなの隣にどう立てばいのか、あらゆる瞬間考え続ける人として描かれていた。
彼女の揺るがぬ頼もしさが、思春期の難しさや過酷な戦いに悩む皆の支えになっていたのは、話が適度に悩みつつ真っ直ぐ進むための、大事な安定装置だったと思う。
同時に大人でありながらまだ憧れの真ん中にいて、子どもの心が誰よりも分かる夢の当事者である瑞々しさを、保ち続けたのも嬉しい。
あげはさんだって人間で、別れに涙し生き方に迷い、しかしそれでもなお、子どもたちの隣にいようと思えたかつての夢にふさわしい自分であるために、必死に強がっている。
その人間性の震えがあったからこそ、ともすれば完成され動きのないキャラになりそうな”大人”が、大人の善い部分と子供の善い部分両方を併せ持った、過去と未来の架け橋になってくれた気がする。
そんな媒としての強さは他者に向くだけでなく、彼女自身の過去と現在、そして未来を繋いでいると、このエピソードで解ってくる。
両親の離婚という、極めて現実的でシビアな闘いをなんとか生き延びて、名字が変わっても自分の意志と決意で姉たちと触れ合う未来を、その手で選び取ったあげはさんの過去。
辛くて震えていた子どもに手を差し伸べてくれた誰かが、暖かくて優しくて憧れたから今、同じように強くて楽しい人になろうと、必死に頑張っている生き方が、やっぱり僕は好きだ。
あげはさんがたどり着いたあまりに正しく、強く、優しい彼女だけの”無敵”は、彼女に手を引かれて未来を探していく子ども達への予言でもあって、別々だけどおんなじ苦しさと思いを抱えたみんなが、それぞれの物語をより善く綴っていけるのだという、一つの証明になってくれた。
メインキャラとして作品の真ん中に、作品が描くべきこと、描きたいことの体現がい続けてくれたのは、とても良いことだったのだろう。
■第45話『アンダーグ帝国の優しい少女』
このあたりから敵サイドの事情を省いてきたツケが凄い勢いで襲いかかってきて、夏休み最終日の小学生みたいな猛烈な追い込みでもって、プリキュアが戦ってきた相手の素性、臨んで叶わぬ苦しい夢、手を差し伸べて救わなければいけない理由が描かれていく。
明らかな構成ミスと物語装置の不備で生まれた大童ではあったが、終わってみるとクライマックスを成り立たせるための熱はなんとか作り出せていたし、分厚い日常の中育んだモノが非日常の決着に繋がる構図を、ギリギリ確保出来ていたように僕は思う。
この話数は主役二人をダイレクトに過去にぶっ飛ばし、歴史と因縁の当事者にすることで急に明かされる真実の説得力を生むという、作劇的な宙返りを全力で叩き込んでいる回だ。
そういうとんぼ返りを幾度もぶっこまないとどうにもならないくらい、”敵”の描き方をひろプリがしくじったということでもあり、難度高い剛腕を全力で振り回して補足したことで、物語が危うくも熱く強くしっかり、着地出来た……着地させたとも言える。
相当なムチャクチャがひろプリが収まるためには必要だったし、必要なだけのムチャクチャを何とかやってくれたプリキュアだったんじゃないかなぁと、個人的には感じている。
後半明かされる真相を僕が飲めたのは、この回でカイゼリンが好きになったのが一番大きいだろう。
ダークヘッドの孤独なエゴと空虚な独善を、国家=社会=世界の真理として拡大再生産し、身体的にも闇の種族として光を受け入れられないよう縛られてきた、アンダーグ帝国の人たち。
彼らが父なる暗黒の鎖をふりちぎり、自分が臨んだ新しい生き方へと進み出していく成長が、エルちゃんを育む暖かで柔らかな物語と対置されている構図はかなり好きだ。(まぁエルちゃんの方は、赤ん坊と淑女どっちにアイデンティティをもっているのかわかんない、不思議なキメラに収まっちゃった感じもあんだけど)
その代表として、カイゼリンはましろさんによく似た穏やかな優しさと、ソラちゃんによく似たいざというときの強さをもって、もしかしたらキュアノーブルと”ふたりはプリキュア”になれたかも知れない可能性として、その過去を描かれる。
和解の可能性と期待を背負って現在に戻ってみれば、修羅の顔で恨み節をがなり立てる哀れな独裁者になっているわけで、一体全体何がどうなって歪んだのか、終盤戦を引っ張るミステリとしてもいい仕事をしてくれた。
ノーブル一人では覆し得なかった不和と断絶の歴史を、勝手に背負わされてエルちゃんはでこぼこ道を歩く羽目にもなるわけだが、乗り越えられなかった過去を新世代を担う子どもたちが書き換え、より希望のある物語へと繋いでいくお話を紡ぐ上で、変わりたいのに変われない、だからこそ助けなければいけないカイゼリンの造形はとても良かったと思う。
ガチンコにお姫様なので、台詞回しが大仰で文学的なのも好きだ……(共感されにくい萌えポイント吐露)
■第49話『キュアスカイと最強の力』
大団円の仕上がりとしてはこの次の最終話なんだが、俺はキュアプリズムが好きだから……。
こんだけの偉業を成し遂げても、虹ヶ丘ましろが手放さない湿り気と弱さを描いてくれたって意味でも、次の話と合わせて百億点つう話ではある。
俺がひろプリを気持ちよく見終われたのは、虹ヶ丘ましろという人を尊敬し、好きになって見れたのがとても大きいわけで、なんにもない少女が絵本作家を生業と選び、『人間は物語である』というメッセージを発するに至った全部が、いっとう好きだ。
ここまで殴って攻めて打ち破って、ベコベコに凹まされても立ち上がって前に進んできたソラちゃんのヒロイズムは、今回で倒すべき敵と同種の危うさを露呈し、ダークスカイは顔のない力、巨大な拳そのものになってしまう。
あんだけ英雄的活躍をしてきたソラちゃんですら、ダークヘッドが体現する力の空疎さ、制御不能で他者を否定する孤立には飲まれてしまうことがあって、しかしめっちゃ『ましろさん素敵です! 好きです!!』言い続けた彼女は、そこから戻っても来れる。
彼女自身の生き様に照らされて、愛ゆえにただ信じて待つ最強の強さを手に入れたプリズムが鏡になってくれるからこそ、顔も名前もない暴力ではなく、ソラ・ハレワタールでありキュアスカイである自分を取り戻せるという決戦の描き方は、本当に好きだ。
マスキュリンで活動的なソラちゃんの強さと、フェミニンで受動的なましろさんの優しさ、両方が世界にはなければならないし、二人が出会ったからこの決着になるのだと、無茶苦茶感慨深く夢の虹が瞬く瞬間を見届けた。
強いことは優しいし、優しいことは強いのだと、思えば随分ハードボイルドな結論をとびきりかわいい美少女戦士が堂々吠える姿は、痛快でもあろう。
これはひっくり返せば、優しくないやつは弱いし、強さだけでは強さは成り立たない……ということでもある。
この話数もう一つのありがたさは、対話には応じねぇ結論だけ押し付けてすぐ消える、くっそつまんねぇスキアヘッドというキャラに納得がいったことにある。
闇から生まれ闇以外を知らない一つのシステムとして、別の生き方に己を照らして改めることがどうしても出来ない奴だからこそ、バトルノルマ消化装置として拳を通じて魂を通わせることもなく、手前勝手に自説を垂れ流してきたんだと、最後の最後に腑に落ちた。
闇の定めを振りちぎって光へ進んでいく、人間的な歩みはカイゼリンに任して、スキアヘッドは徹頭徹尾空疎で身勝手で、自分だけの真実に囚われた醜悪な闇として描かれ続ける。
その強い孤独と断絶、負けて変われる自分を認められない哀れさは、怪物として戯画されてなお『ああ、いるわこういう人……』と思える普遍性があったと思う。
個人として、集団として、頑なにこり固めたエゴの鎧で弱い自分を守り、他人を見ず認めないことで……攻撃して叩き潰すことで自分を確立する、メチャクチャありふれた悪の形。
それを残り僅かな尺の中で乗り越えるべき敵と定めたのは、かなり現代的で同時代的な語り口だなぁと思った。
ダークヘッドが最初でも最後でもない、ありふれて面白くもない闇が随所にある荒野へと、子どもたちは進み出していく。
そんな子達に手渡す手紙として、人間とは物語であり、十人十色様々なそのページを大切に捲って、そこに描かれているものを自分に引き寄せて、友達になっていくのが良いんだと、ひろプリは言ってくれた気がする。
そのためには自分の物語を面白く、自分らしくする必要があって、他人の物語を読まない、他人に物語はないのだと否定する、それが真理であるために他人を踏みにじりすらするダークヘッドが、空疎でつまらない物語として描かれきったのに納得がいくのだ。
自分の外側におかれた、自分とは違う人達の夢物語がこんなに面白いんだから、眼の前の誰かに刻まれている特別でありふれた物語を、一緒に読んでも楽しいよ。
そう言うだけの資格は、一年間のでこぼこ道を何とか走り切って、『面白かった、良い話だった』とページを閉じられるひろプリには、俺はあると思っている。
現実の険しさとどうしようもなさに裏切られ、信じきれない綺麗な理想を、それでも堂々叫ぶ物語には意味も価値もあるのだと、”プリキュア”自身が描き伝えてくれたと感じている。
物語自体が物語について語るメタ的自己言及の構造が、そもそも好きだってのもあるけど、ひろプリにおける物語論はあくまで、新米絵本作家・虹ヶ丘ましろが楽しく描き、ビリビリに力作を引き裂かれ涙し、それでもなおシコシコ書くしかない業の現れとして、その手に力強く掴まれている。
そういうテーマとメッセージを、真っ白な可能性でしかなかった中学生が自分の未来を見つけ、一年間の特別な冒険の中で特別な友だちを見つけるお話の中、生き生き語り切れたのは、間違いないと感じている。
だから、俺はひろプリが好きだ。
とても好きだ。
■番外 映画『プリキュアオールスターズF』
TVシリーズ総括という趣旨からは外れるが、この大傑作の名前を挙げないで終わるのこそ”嘘”なので、ここに言及する。
20年目のプリキュア、一体何を描き続け、これから何を描くのか。
敬愛と決意に満ち満ちた、誇り高い自画像を見事に描ききった力作であり、キュアシュープリームとキュアプーカ、新たな”ふたり”が誕生するまでの物語として、濃厚で力強い感情と関係性が暴れまくっている。
やっぱ映画オリジナルのキャラが、自分の物語を手に入れるまでしっかりやって、ただの同窓会で終わんなかった所がマージで偉い。
あと『男性的な要素を含むスカイが前に立って強いように見えるが……真実強いのは信じて待ち受け、手を広げ抱きしめるプリズムッ!』という、本家の強いましソラ思想がギュンギュンな映画でもある。
この映画を踏まえた上で、49話50話で非日常と日常、負ける役と活躍を入れ替えてお互いが不可欠だったのと描き切る20年目の”ふたりはプリキュア”……やはり良かった。
ひろプリが好きだし、好きで良かったと今、心から思っています。
ありがとうございました!