イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

蝋梅寒風に芳し -2022年10月期アニメ 総評&ベストエピソード-

・はじめに
この記事は、2022年10~12月期に僕が見たアニメ、見終えたアニメを総論し、ベストエピソードを選出していく記事です。
各話で感想を書いていくと、どうしてもトータルどうだったかを書き記す場所がないし、あえて『最高の一話』を選ぶことで、作品に僕が感じた共鳴とかを浮き彫りにできるかな、と思い、やってみることにしました。
作品が最終話を迎えるたびに、ここに感想が増えていきますので、よろしくご確認を。

 

 

・アークナイツ 黎明前奏/PRELUDE TO DAWN
 ベストエピソード:第1話『覚醒 Predestination』

lastbreath.hatenablog.com  (”アニメ化”という行為、”アニメ”という表現自体が大変難しいことはいったん横に置いて)、ソシャゲのアニメ化というのは難しいと思う。
 ゲームが生み出す主観的体験と、アニメというある程度画面から体を離して客観で物語を体験するメディアを橋渡しし、むしろその魅力をより強くして描き直すためには、原作への理解と情熱、様々な工夫が必要になってくる。
 さてアークナイツのアニメはどうなることか……と、期待と不安に揺れながら見届けたこの第1話が、アニメ独自の画角をしっかり保ちつつ、僕が良く知ってて大好きな”アークナイツ”でもあったことが、八話に渡る放送を楽しく見届けられた、大きな助けになったと思う。

 第1話はあえて横幅も縦深も大きい作品世界に踏み込まず、記憶を失ったドクターの不安定な主観にシンクロするように展開していく。
 狭い視界、急転していく状況、不鮮明極まる不安。
 それを受け止め抱きしめて、時に背中を擦り時に先頭に立って闘うアーミヤの魅力が、大変印象的な仕上がりだ。
 アニメのアーミヤを理想を高く掲げ人々を導くヒロインとして、当たり前の震えを決意の奥に隠している一少女としてしっかり描けたことが、作品を支える主柱となっていた。
 それだけで終わらせず、ミーシャと出会い分かれていくドラマの主役として、か細く可憐な人間としての顔、それが背負うには重すぎる宿命をそれでも背負ってしまう切なさを、しっかり浮き彫りに描ききれていた。
 この第1話でアーミヤに感じた安心と信頼を、あまりに過酷な結末にうずくまる最終回、彼女に導かれ立ち上がったドクターが返す最終話と合わせて、『待望のアニメ化』で終わらないまとまりと満足感にたどり着く、素晴らしいスタートだったと思う。
 この話数に宿った期待感をしっかり温めながら、一期を完走できたことは本当に良かった。
 いつか来る二期、とても楽しみにしています。



ヤマノススメNext Summit
ベストエピソード:第8話『パワースポットでバレンタイン?/スノーシューにチャレンジ!』感想

lastbreath.hatenablog.com

 まさかまさかの復活を果たし、30分枠で新たに暴れたヤマノススメ
 怪物アニメーターが毎週暴れ倒し、見どころ満載の物語の中でこの話数を選ぶのは、結構意外なチョイスだと自分でも思う。
 繊細な感情と関係性の機微が切り取られてた話数もあれば、爽やかに広がっていく関係性の豊かさ、日常に満ちた幸福を鮮烈に切り取る回もあった。
 その上でこの話数を選ぶのは、前後編合わせて最もヤマの顔が多彩に切り取られ、時の移ろいが極めて豊かに観察できたからだ。

 秋から冬、春へと移り変わっていくNSの筆は、時と場所が変われば様々個別な顔を見せてくれる自然の魅力を、とても豊かに切り取ってくれた。
 そういう日本の四季を豊かに詰め込むショーケースとして、この情景詩を見ていた部分が強い自分としては、この話数で切り取られた自然の顔の多彩さを、やっぱり大きく評価したい。
 最終話二話の富士登山に向け、確かに力を蓄えていく途中経過ではあるのだけども、そこに満ちているものも大変に豊かで、大きく意味のある人生の一幕。
 そんな視線が、当のフィナーレにまでしっかり伸びて山を降りまた登っていく未来へ通底していることを考えると、物語の中で流れ移ろっていく時の意味合いを、様々間に美しく切り取れた意義はとても大きいと思う。
 それは美麗で壮大なただの飾りではなく、確かに人間が生きる大きなドラマの一部だった。

 これはEDアーティストとして圧倒的な存在感を発揮していた、吉成鋼の使い方にも言えると思う。
 ともすればその圧倒的な力量と職人気質を制御しきれず、一人だけ劇場版クオリティで暴れて”浮いて”しまうことも多々あったスーパーアニメーターは、今回も好き勝手絶頂に暴れ倒している。
 しかし1分半の第3エピソードはただただ”上手くて凄い”で終わらず、本編が切り取りそこねた”ヤマノススメ”を濃厚かつ的確に捉え、描き、躍動させた。
 あの短編集が確かに物語としてアニメートされていたからこそ、そういう場所に”吉成鋼”を置けたからこそ、強く豊かな広がりもあったと思う。
 ともすれば余白や装飾になってしまいがちな場所にこそ、真実命の宿る描線を入れ込んで、作品全体を豊かにして行く。
 そういう境地を緩まず走りきった、大変素晴らしいアニメでした。


・Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-
 ベストエピソード:第9話『DIYって、どっきり?・いがい!・よていがい!』

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 解るッ!
 『10話だろッッッ!!!!!』って言いたくなる気持ちは解るッ!
 そっちは年間十選の方にきっちりブチ込むので、俺がなんでこの話数をベストに選んだかを聴いて欲しい。

 『せるふをどう転がしていくのかな』てのは、このアニメを見ていく上で自分的に凄く気がかりなポイントだった。
 幼く夢いっぱいで、話の主題であるDIYを通じて自分を見つけ、自己実現の手応えを掴み取っていく……”成長”していく主役は、その真っ直ぐな率直さで周囲に良い影響を与え、部に認められていく。
 そんな彼女が取りこぼしたものでぷりんの心は勝手に傷ついて、距離があいて、それでもずっと健気に幼なじみを見つめている。
 せるふの幼さは、それで塞がれている視界は自分の至らなさを見つめないまま、作品を完成に近づけていく重要な価値として無批判に守られるのか、というハラハラ感は、正直自分の中に濃かった。

 しかしこの話数で、せるふは”役立たず”ではない自分を仲間に認めてもらおうと、こわばった表情で気合を入れる。
 そこにはおっとりした彼女なり、自分の特質と未成熟に違和感を感じ、『このままじゃ嫌だな』と思う震えが、確かに反射していた。
 自分を認めてもらいたい、認めてもらえる自分でいたいという、ごくごく当たり前で、時に人生の致命傷となりうる切実な思いが、このアニメ美少女には確かにあったのだ。
 その体温と震え方を確認したことで、そんな仲間の切実さをけして無碍にはしないDIY部の優しさを見届けたことで、このお話の価値が自分の中、決定的に定まった感じがあった。

 ぷりんが率直さになる難しさと同じくらい、せるふが”ま、いっか!”でごまかしつつけして無視できなかった、己の特質との戦いはお話の中、大事なものとして扱われていたように思う。
 アファーマティブ・アクションだ社会参加だ、大上段に構えて説教食らわす姿勢は欠片もなかったが、だからこそ新技術を社会になじませる試みと同じくらい、”役立たず”と思われてしまいがちなせるふを社会がどう受け止め、せるふが自身(self)を肯定できるようになるかは、親身な問題として僕の心にしっかり届いた。
 デカい題目だけ振り回していても、けして自分ごととは受け取れない世の中の一大事に、笑いと感動のヴェールをかけて、見ているものの心にしっかり染み込ませる。
 そういう力がフィクションには……たぶんフィクションだけにあって、優しい夢を絶対に壊すことなく、そういう力を十全に発揮していたこのお話の強さ。
 それはこの話数にこそ立ち現れていると、僕は思ったのだ。
 ”役立たず”ではいたくないと、らしくなく顔をこわばらせ仲間を待つせるふを描けたこと、描いたことが、このアニメがふわっとした第一印象を見事に貫通して、これから続いていく”現実”なるものに深く確かに突き刺さる鋭さを、己の手で作り上げている。
 そういう事ができるアニメを、僕はとても尊敬する。

 

 

・アキバ冥途戦争
 ベストエピソード:第12話『萌えの果て』

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 僕は万年嵐子が好きなので、この話数をベストに選ぶ。
 彼女は第10話と第11話でその生き様を生死の間輝かせ、無様に殺されて散っていったわけだが、その完成は万年嵐子の死を持って終わるのではなく、志を引き継ぎ彼女が(あるいは、死んでいったすべてのアキバのメイド達が)成し遂げ得なかった夢と覚悟を、なごみが貫き通すことで完成する。
 嵐子さんが果たし得なかった夢を、殺さなかったから生きることを許された主役がどう貫き、イカれた世界で自分だけのメイド道を形にするのか。
 それはなごみだけの決着ではなく、彼女に思いを託して死んでいった嵐子やねるらちゃん、あるいはそうは生きれなかった愛美や凪たちへの答えとして、作品全部の価値を決める大勝負だったと思う。
 そして、なごみは見事に踊りきった。
 文句はない。
 万円嵐子を継ぐものとして、二代目・不惑の豚として、車いすを笑顔で駆る36歳のなごみは、最高にキツくて可愛かった。

 第6話、赤い超新星の登場とねるらの死で作品には一気に弾みが付いて、自分たちが選んだ”メイド”がただのブラックジョークのシニカルな添え物ではなく、笑いものにはしない本気の題材であることが、じわりと燃えてきた。
 抜け出すことを許さない、暴力の渦に囚われた狂気のアキバ……その重力を疑わず殉じるものと、迷いつつも抜け出せないものと、希望を託しそれに飲み込まれるもの。
 ここで問われたなごみの”覚悟”は、嵐子の血を代償にもう一度問われ、しっかりと答えを出していく。
 イカれているものにイカれてると大声で告げて、その代償に当然ぶち込まれる銃弾にも魂を砕かれず、己の信じたメイド道をひたすらに進む。
 その立ち姿が、このお話が一体何だったのかしっかり語ってくれているから、このアニメは良いアニメだ。
  良い最終回で、凄く面白かったです。

 

 

・PUI PUI モルカー DRIVING SCHOOL
 ベストエピソード:第10話『 あの子はだぁれ?』

lastbreath.hatenablog.com

 色々と難しい二期だったんだろうな、と。
 観客席から見ながら、勝手ながら思う。
 正直な話、僕はモルカーを"親しみやすい"物語としては見ていなく(求めていなく)て、異質で奇妙な隣人が当然のように居座る一種のSFとして、遠く不可思議な味わいを求めて見ているフシがある。
 キャラ個別の顔、人間との関わりが多い二期は、人の作ったドライビングスクールを拠点に話が転がり、野放図に世界を駆け回り、異様な発想力と多彩な表現を縦横無尽に蕩尽する作りではなかった。
 そう出来なかったのだろうし、そうしなかったのだろう、と。
 外野席から勝手に判断して、そういう腹積もりを自分なりに整えながら、どこか少し遠く作品を見守っていた感じがあった。

 しかしその画角が”劣化”ではなく、モルカーの在る社会を一期とは別の角度から、別の筆致で描こうとする営為なのだと得心できたのは、正直そろそろフィナーレが見えてくるこの話数であった。
 ちょっと遅いかもしれないが、遅すぎるということはけしてないだろう。
 モルカーという意思持つ生物であり、便利な道具でも在る存在を前提として機能する、人間のいる世界。
 それがどういう残酷さと傷と痛みと、それを越えていける柔軟な優しさを持っているのか。
 ドライビングスクールがただの収容矯正施設ではなく、世界との繋がり方に難しさを抱える存在が新たに、未来に進み出すための力を蓄える出会いと変化の場所なのだと、この話数は教えてくれた。

 そうしてもらうことで、二期がなぜドライビング”スクール”という場所を選んだのか、そこを舞台に物語を幾重にも重ねていったのかが、ようやく飲み込めた感じがあった。
 そう思える話数がシリーズの中にあることは、とても幸福なことだ。
 ヒューマニズムは否応なく人間中心主義であるけど、その狭さをこじ開けて人道主義であるためには、異質で理解困難な隣人をどうにかして見る必要がある。
 そういう考えに取り憑かれている僕にとって、この話数があってくれることがモルカー二期が引き続き”ヒューマニズム”の話なのだと思える、大事な楔なのだ。

 

 

・ぼっち・ざ・ろっく!
 ベストエピソード:第4話『ジャンピングガール(ズ)』

lastbreath.hatenablog.com 勝負どころの力こぶのデカさ、物語を大きく旋回されるパワーの強さって意味じゃこの後の第5話、あるいは第8話、第12話ってところなんだと思う。ライブもあるしね。
 でも正直作品との向き合い方を掴みかねて、どんな風に自分の指を”ぼっち・ざ・ろっく”に食い込ませていいか迷っていたタイミングで、『ここに触んなよ』と教えてくれたこの話数が、僕は好きだ。
 お話の三ヶ月という結構な長いあいだ付き合う以上、肌に馴染む画角を見つけるってのは相当大事で、それはこっちから突っつくだけではどうしても生まれえず、作品が多角的に放射している魅力や面白さの中から、波長が合う何かを見つけてチューニングする必要がある。
 それは僕の場合、対外人間が生きてるとどうしても生まれてしまうありふれた重たさや硬さ、否応なく生真面目な肌触りであって、そういうものが自分に届いたのがこの話数……ということになる。
 むろん後の展開で受け取った重さや熱量、ぼっち達の思春期を描き切り取る絵筆の鋭さを思えば、それはこの話数以前から溢れていたのだろうけども、そういう潜熱がこっちに届いたのがこのタイミングであり、やっぱそういう瞬間は特別なものとして、自分の中に刻まれていく。

 変人のリョウがシリアスな地金を見せた……というよりも、そんなマジな雰囲気をぼっちが視界に入れ、自分の近くに引き寄せれる力を示してくれたことが、僕にとって結構特別だったのだと思う。
 リョウと話す前景である下北アー写旅は騒々しくも眩い青春の一幕で、そこから溢れるものの勝ちや意味を主人公が蔑ろにしない感受性を、ちゃんと描いてくれると良いなと思いながら、リアルで美しい美術を眺めていた。
 ぼっちはキャラが濃く、作品の大きな魅力であるダイナシギャグの起点として、変人であり続けることを作劇的に要求される。
 つまり”やばくて面白いぼっち”からはみ出す生っぽい感触、当たり前の人間としての震えを切り捨てられやすい立場にあって、そんな風にキャラクターを記号の檻から一生出さず進んでいく物語は、哀しいがたくさんある。
 しかしこのアニメはそうじゃないんだ、と僕に語りかけてくれた初めての話数だから、僕にとってはとても特別で、大事で、好きで、面白いエピソードだ。

 

 

後宮の烏
ベストエピソード:第8話『青燕』

lastbreath.hatenablog.com 何が楽しくてこのアニメ見てたか、を軸に考えてみると、この話数となる。
 陰謀渦巻く宮廷劇のネトネトした質感とか、歴史の真実が幾度もひっくり返される史劇大河としての面白さとか、可愛いかわいい寿雪ちゃんが超好感度系男子である高峰と兄妹のような同志のような初な恋人のような、名状しがたい特別な関係を刻んでいくロマンスの魅力とか、色んなモノがのっかって楽しい作品であるし、なによりも死者を依頼人として異能をもって真実に切り込んでいく、異色のミステリとしての魅力も強い。
 しかし何よりも、寿雪という卓越した仁誠を宿した少女が死者の嘆きを、生者の業をその小さな体で受け止め、時に重すぎる宿命に苦しくあえぎながらも迷える誰かのために手を差し伸べ、救いを与えていくお話として、僕は”後宮の烏”を見ていた。
 主人公がしっかり背筋を伸ばしている作品は強いし、好きになれる。
 寿雪は透明感あるヴィジュアルだけの手弱女ではなく、無垢で腹ペコな可愛さと、意気に感じて情に手を差し伸べる気骨を併せ持った、立派な主役だった。
 彼女が体現する高潔な死生観が、現世の頂点であるはずの王宮を満たす浅ましさと不自由に風を吹かせ、少しずつ苦しみを減じ幸せを増やしていく様子を、見ているのが楽しかった。

 この話数で描かれた温螢の叩頭は、そんな寿雪の卓越した人徳を、最も正統に遇していると僕には思えた。
 それぐらいされることを彼女はやってるし、それを正しく理解しているから温螢は己の命を顧みず、烏妃に忠義を尽くすのだと納得できた。
 主役が周囲から愛され、評価される展開を、『そういう話だから』と甘えずに、しっかりその人格と行いを積み重ねた結果として飲み込める作品は、思いの外少ない。
 そういう人が宿命の檻に囚われているからこそ、それを越えていくドラマもしっかり熱を帯びていく。
 声高に過剰な装飾で飾り立て、その感動を共用するような筆使いではなくあくまで清廉に、穏やかに続けていく語り口もまた、好きだった。

 万人に受け入れられるには題材も描き方も難しく、またわかりにくい所もある作品だったかもしれないが、しかしそれ故自分なり読み方を考え、手紙をやり取りするように物語と対話しながら自分なりの答えを掴んでいく楽しさが、しっかりあったように思う。
 そんな思索の面白さを三ヶ月、ともに共有してくれたことも嬉しい作品だった。

 

 

・宇崎ちゃんは遊びたい!ω
 ベストエピソード:第11話『なんだかそろそろちゃんとしたい!』

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 時を凍らせて永遠を楽しむ箱庭を、どう評価するかというのは人によってお話によって大きく軸足の変わるところだと思うが、僕は変わっていくお話が好きだ。
 ”宇崎ちゃんは遊びたい”の二期はそこら辺、色んなモノが変わっていく……このエピソードの副題を借りるなら『ちゃんとしていく』方向に舵を切り替えている風情で、僕はそんな周囲のおせっかいが好きだった。
 先輩や宇崎が好きだからこそ色々余計な口出しをしてくる人たちに、どうにもしようがなく幸福に包囲されて、子供時代の終わりが見える”大学生”という年齢設定を見据えた方向へと、転がっていく動かぬぬるま湯。
 『そういうキャラ、そういう話』として初期設定を固めて動かした物語の、思わぬままならなさに悪戦苦闘しながら、自分たちが生み出したキャラを大事に、自然な選択ができるよう一個ずつエピソードを組み上げながら展開していく感じが、やっぱり僕は楽しかった。
 その結末として、『やっぱり選べない』ことを先輩最後の決断として描くのなら、それはそれで作品の流れに抗わない、一つの決断なんだろうな……と。
 納得し尊重する気持ちもありつつ、やっぱアニメの範囲で一発、分かりやすい決着は付けて欲しかったかなー。

 さておきこの話数、なにかと先輩のモダモダを甘やかせ長引かせる周囲には珍しく、嫌いで身近においておきたくない”父”という他者が登場して、先輩に一番刺さることを言ってくる。
 なにもしないまま永遠にそのままな身悶えを、あえて大上段からスパンと投げ飛ばして、一番言われたくないだろう苦言をしっかり告げる。
 桜井父は最悪極まる第一印象から、物語に欠けてたピースをビシッとハメ込んでくれる”いいキャラ”として独自の立ち方をしてて、終わってみると(ラスト一個前で、異様なオモシロポテンシャルを存分に発揮した宇崎藤生と併せて)二期で一番好きなキャラになった。
 ワイワイ騒がしいながら家庭円満、交流も出番も多い宇崎家に対して、桜井家は独特の衝突がありつつもそれをしっかり受け取って、先輩もブツブツ文句たれつつなんだかんだオヤジの胸を借りて先に進んでいる。
 そういう、色んな顔がありうる”家”が見れたのも、この話数が好きな理由だったりする。
 クソ親父にだけ荒くれた部分を見せれる先輩、相当キツめのファザコンだよなー……自覚してないだろうけど。
 こういう強引さを宇崎の前でも出せたのなら、なんかいい塩梅にグイッと物事進んでいくんだろうけど、そう出来ないからこそ身勝手なオヤジ、それに似てる自分を素直には飲み込めなくて。
 宇崎の”先輩”やってる時はあんま表にでない、一青年としての桜井真一が見れたのは、やっぱり嬉しかったです。


SPY×FAMILY
ベストエピソード:第21話『〈夜帷(とばり)〉/ はじめての嫉妬』

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 だって……僕はフィオナくんが好きだから……。
 てのが選出の一番の理由であるけども、鉄面皮の奥に秘められた先輩LOVEの大嵐、それが溢れ出るまでのタメとテンポ、ダダ漏れになってからの異様なテンションの高さ……を、最後の涙雨でスッと冷やしてまとめる一連の起伏が、大変”SPY×FAMILY”のアニメらしい回だからでもある。
 学園群像劇、スパイアクション、ファミリーコメディ。
 色んなジャンルを横断し、キャラクターの多彩な魅力を様々な角度から引き出して、おもちゃ箱をひっくり返したような賑やかな魅力を生み出すこの作品。
 <夜帳>のキャラを彫り込むこのエピソードでは、シリアスからコメディへ、そしてまたシリアスへと話と画面のトーンが忙しく切り替わり、しかしそれらの接合面は丁寧に地ならしされて、つなぎ目の違和感が少ない。
 色んな要素をブチ込んで、そのどれもが”SPY×FAMILY”なのだと受け入れられるのは、キャラの見せ方や笑いの作り方、ドラマの編み方などなど、物語の様々な部分で細やかな配慮が必要な、そして『あ、配慮してるな……』と気づかせてしまえば仕掛け自体が破綻するような、なかなか難しい仕事だと思う。

 思えば全25話、構えた所なく超絶クオリティをブン回し続け、しかしただひたすらに楽しいエンターテインメントとして素直に飲み込める仕上がりを続けたのは、相当に大変なことだったと思う。
 そういう技芸を一話にギュッと詰め込んで、思いの外多彩な顔のあるフィオナ・フロストというキャラクター、新キャラである彼女が別角度から照射し見えてくる作品の魅力を際立たせたのは、やっぱり凄いことだ。
 フィオナくんがロイド・フォージャーではなく<黄昏>を見つめ直してくれるからこそ、慣れ親しんだ”ロイド・フォージャー”の良さやら危うさなんかが再発見できて、彼の両肩に載っている物語の面白さと、新たに出会い直すことも出来る。
 その投入タイミングも含めて、いいキャラをいい筆致で書ききってくれたエピソードで、すごく”らしい”なと感じている。

 

 

チェンソーマン
 ベストエピソード:第4話『救出』

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 思い返すと、なかなかヘンテコなアニメ化だったな、と思う。
 チェンソーマンという作品が何なのか、傑作として人の心をえぐるあらゆる物語がそうであるように、その答えは多角的……であるべきだ。
 色んな面白さやら難しさやら読み応えやらがあって、複雑な切断面に自分が見たいと思う自分、見つけられなかった自分が反射したり、思いがけない発見を手渡したりしてくれるからこそ、優れた物語は多くの人の心を打つ。
 そんな感動を生み出すのは見るものの反射であると同時に客観的事実でもあって、このバランスをどこに引くかはいつでも大変に難しいと思う。
 あらゆる認識は主観的解釈でしかなく、同時に……特に新たに出力され、同じでありながら個別の存在として他者の視線に晒される物語においては、客観的で公平で妥当な解釈なるものが、それを見届けたもの全てに共有されるという事実(あるいは幻想)を足場に、物語は人と人との間に立つ。
 回りくどい言い回しをしたが、『”人それぞれ”と”どう考えても明らか”の中間地点で、お話ってフラフラしてるから面白いし、難しいよね』って感覚を、この作品と組み合う経験はよく思い出させてくれた。

 この”アニメ化”が選んだ筆致は凄く”チェンソーマン”的ではなく、同時に凄く”チェンソーマン”的だなと、個人的には思っている。
 このエピソードで、とても長い尺と気合が入りすぎた描線で描かれた、早川アキのモーニングルーティーンの静かな豊かさと、そこに隣り合う新たな家族達の喧騒。
 それを描かざるを得ない力学が作品の内部に、あるいはそれを生み出す人と人の絡み合いの中にあったから、あの青い朝は豊かに刻まれた。
 それが妥当か不当か、必要か不要かの判断は個々人勝手に下せばいいと思っているし、僕は大変に好みだからベストに選ぶんだけども、最終話全てをまとめるエピローグでもう一度、今度は夜を舞台に、未練と哀しみをたばこの煙にくゆらせている窓辺の早川アキが選びぬかれ描かれ直した時に、やっぱこの場面大事なんだな、と僕は思った。
 あの青い朝に漂ってる透明な空気は早川アキという青年を凄く精密に浮き彫りにしていたし、『そういう精度と角度で、”チェンソーマン”をやりたいアニメなんだな』という納得は、第1話の夕景なんかでうっすら感じ取ってはいたけども、やっぱりあの瞬間僕の中に確かに結晶化したのだ。
 それは凄く良いものだし、同時にその良さを越えてまた別の、時には赤い喧騒も交えての筆に挑んでほしくもあるので、僕はこの話の続きがアニメで見たい。
 見たいのだ。

 

 

機動戦士ガンダム 水星の魔女
 ベストエピソード:第2話『呪いのモビルスーツ

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 自分なり、作品と出逢う瞬間というのは確かにあって、それはその人の中で特別な話数になっていく。
 何しろ鮮烈な野心作なので話の構成、キャラクターの見せ方、印象的な場面といった”客観”ではまた別の話数をベストと挙げることも出来るけど、でも自分が”水星の魔女”を掴んだのはこの話数だなと、第1クールの折り返しを終え、その衝撃にめまいを覚えながら三ヶ月後を楽しみに待っている今、思い返せばそう感じる。
 オタクカルチャーの金看板”ガンダム”が、思いの外その引力圏の外側に届いていない現状を前提にした上で、ではどう届けるのか。
 色々新しい要素を盛り込みつつ、しかし奇妙に的確に”ガンダム”でもあるこのお話がどんな手触りをしているか、プローグに満ちた陰鬱で長く響く預言と、それを打ち払うように明るく前向きな第1話の挨拶を終えて、MS戦を控えて描かれたこの話数。

 祝福と呪い、企業宮廷の謀略劇、決死に瞬く青春、家という牢獄、我が母なる暗黒。

 後の話数で残酷な火花をちらしながら、激しく暴かれていく作品の心臓部になんとなく目が向いて、『だいたいこういう話かな』と自分なり測量をしておずおずと、あるいは確信を込めて作品に体重を載せた期待感は、裏切られることなく加速し、加熱して折り返しを迎えた。
 現状とても面白く振り回されながら、ここで見つけた手がかりに指をかけて、リアルタイムなライブ感に身を委ねながら視聴している。
 『ここに指をおいても大丈夫なのだ』と、自分なり思えるような手がかりを幾重にも重なった描写の奥、自分の指で探り当てて、自分なりの納得を込めて大事に抱え込む。
 そういう体験が早めに出来たのは、お話の優秀さでもあり、自分との相性の良さでもあるのだろう。

 母という呪いがスレッタを飲み込み、その残酷な手のひらがミオリネとの断絶を押し広げる形で一旦の幕を迎えてみると、この話数で僕が(勝手に作品と響き合う中で)見つけ、のちの話数でも幾度も顔を出す『閉ざされた場所を共有する/拒絶する』というエロティックなモチーフには、思いの外大きな意味があるのかな、と感じる。
 当たり前の不器用さと、当たり前であってはいけない苛烈な運命に擦り傷を増やしながら、それでも健常で正当な倫理観で背筋を立てて銃口に立ち向かったミオリネの、命を救う無垢なる手のひら。
 それが断ち切ってしまったものは、もう二度と繋がらず二人を切り離していくのか。
 スレッタにとって故郷を離れ初めて出会った大事な他者は、このまま母子共犯の歪な閉所から彼女の花嫁を取り戻すことなく、暗く閉ざされた幼年期へと赤い魔女を置き去りにしていくのか。
 否応なくそういう事を考えざるを得ない、あの12話Cパートを叩きつけられた後で、しかし思い返せばやはりあの親密な近さは、お互いの魂が触れ合う場所へ異物を共用する行為は、甘やかに優しい。
 どんな波風を乗り越えて、二人がまた特別な親密にもどってくるのか……あるいは切り離されたものは二度と繋がらないかは、けして目を離すことが出来ないこれからの物語だ。
 そこに不思議な切なさと執着を宿して、多分嘘でしかなかった学園での青春を懐かしく思い出すのは、やっぱりこの話数で(そしてこの話数から)描かれたモノがけして嘘ではなく、嘘であってはいけなく、嘘であって欲しくなどないと思わせる表現力が、確かにあったからなのだろう。
 そういう感覚を深く埋め込む話数は、やっぱり僕にとって決定的に大切なのだ。

 

 

 

アイドリッシュセブン Third BEAT!(第2クール)
 ベストエピソード:第30話『結ばれる因果』

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 オタクをそれなりに以上に続けていると鼻は効くようになるもので、『あ、サドビで巻いた種回収しきれないな……』みたいな感覚は、20話越えたあたりからピリピリと感じていた。
 アプリという明確な終わりが見えず、作者や作品が望むベストなタイミングで終わることを(ほぼ)許されない商業創作に乗っかっている以上、その語り口も30話使って堂々『続く!』と刻み込むのが原作通りな、否応なくチャレンジブルな方向へと突っ走っても行く。
 キャラクターや事件単位だと全く終わっていないことが多く、そこら辺の決着のつかなさ、暗い影が長く長く人生に伸びていく感覚は、Re:valeのややこしい距離感とか、鷹匡を食った呪いとか、セカビの時点で巻かれた種にしても……あるいはサドビ終盤で一気に炸裂したナギの過去にしても、既に”アイナナらしさ”として語られている部分ではある。
 おそらくこの三部で一見解決したように見える問題も再び角度を変えて顔を出して、なにもかもが決着する完璧な幸福など人間には縁遠く、だからこそ面白い人生を幾重にも描いていく作品のスタンスが、その語り口を通じて強化もされていくのだろう。
 テーマはリフレインとアレンジを重ねることで、主題としての存在感と意義を増していく。
 音楽的な語り口だな、といつも思っている。

 自分はMEZZO"好きだから第23・24話ベストに選ぶかはすごく悩んだし、あそこで一期で散々暴れた環が迷ったからこそ掴み取れた成長と成熟に……それが壮五を物わかりの悪い子どもに引き戻して、向き合うことを許されなかった幼い純粋さと組み合ったからこそたどり着けた場所が、ひどく眩しい。
 でもその光は濃い闇といつでも隣合わせで、”家”という牢獄の呪いと祝福(祝福それ自体が誰かの呪いにすらなるのは、龍之介の苛烈な家族主義からも見て取れる)は彼らを幾度でも捉えていくのだろう。
 だから蒔いた種が発芽仕切らず、解決を待っている和音が多数ある事自体は、このお話独自の語り口であり、魅力の一つだと思っている。
 しかしまぁ、終わってはいない。
 四期の方も、これを書いている23年3月初めの時点では聞こえない(’早く聞きたい)。

 もう一つベストと迷ったのはみんな大好き第28話で、サドビ始まってからずーっと最悪の憎まれ役として話を牽引し、人間社会のイヤーな部分を表舞台に引っ張り上げる仕事を頑張ってくれてた了さんの、地金が見えたのは大変嬉しい。
 それは選ばれてアイドルになった……あるいは選ばれなくても光の当たらない場所に誇りを持って生きれた主役には、けして演じることが出来ない人間の本当を、色濃く最悪に反射している。
 何かにすがって報われず、虚しさを勝手に投影して裏切られたと思い込み、その悼みだけが自分のみならず世界全体の真実なのだと自我を肥大させ、誰にも愛されるわけがないやり方で誰よりも愛を求め、自分でそれを壊す。
 酷くありふれてつまらない、だからこそしっかり描いて主役に超えさせなければいけない、凡人の肖像画
 ”普通”であることはなにも決着の凡庸さを保証するわけではなく、むしろ根本的に”普通”であるからこそどこにも突き抜けられないまま、周りを巻き込んで地獄を作っていくという、出口がなくてうんざりする人間の”普通”が、道化師の仮面に強く滲む。
 世知辛い世界に翻弄され、それでも拳を握って歌って踊る主役が吠える『それでも』に、唇の端を歪めてどうしても飛び出す当たり前のニヒリズム……『それでも頑張ろう』への、『それでも頑張れないから、こんな事になっちまってんだよ』というノイズ。
 それを作品に持ち込む資格がたっぷりあるのだと確認し、確信できるこのエピソードは、ストレス山盛りなサドビに付き合った甲斐、コイツ殴り飛ばしてスカッと終わらない『続く!』な話を腹に収める、大事な材料になってくれた。

 そう。
 現状保証もない『続く!』を飲み込むのが、アニメでアイナナに触れ続けている僕には大事で、なぜなら続いて終わってくれる保証なんてどこにもないからだ。
 毎回変則的な放送形態にどうにか、山盛りカルマと輝きと夢と呪いを詰め込んだ銃口な物語を詰め込んで転がっていくこのアニメが、トロイカを長時間拘束しながら果たして”次”をやってくれるかなんて、確約はどこにもない。
 『映画もやって各種メディア展開も精力的で、途中で終わるなんてこたぁまぁないだろう』と己を安心させても、やっぱフラフラ心は揺れて不安にもなる。
 それで良いのだと思う。
 何も確かなものがない世界に、それでも何か永遠があるのだという錯覚を約束して、それを手がかりに人間を”普通”な泥の中から引っ張り出せる奇跡をこそ、このアイドル物語はずっと書いているのだから、物語の外側で踊っているもう一つの物語もまた、ハラハラワクワクと先が見えなくて良いのだと思っている。

 その上で物語に一つの区切りがつく以上、なんらかの収まりってのはとても大事で、それを成し遂げたからこの最終話をベストに選んでいる。
 MOPでアイナナとTRIGGERが激しくしのぎを削り、お互いのステージ哲学を譲れない兄弟の意地、ここに至るまで積み上げてきた苦悩と決意を競い合うステージの、表現力の強さ。
 これまた『続く!』なナギの覚悟と未練を、幾度もその素っ首切り落とす不穏なレイアウトで強調して、勝負論を観客に読ませる演出の冴え。
 そういう強いステージの外側に、サドビがずっと向き合ってきた、了さんの悪辣が否応なく浮かび上がらせた『アイドル VS 世間』の決着がある。

 誰かの用意した筋書きを鵜呑みに勝手に冷えて、勝手に裏切られたと感じて、誰かの真剣を真剣と感じられなかったカップル(伊藤彩沙の声が強すぎる。キミはバンド活動とか役者仕事を通じて、己の真剣さで誰かを震わせる側だったでしょッ!)が、つまんなそーに見始めた携帯越しのステージから、確かに届く何か。
 それをこそ信じてアイドルはアイドルをし続けていて、それの不在に傷ついて了さんはアイドルを否定しているものが、ステージの勝敗を越えた所で、”普通”な風景の中で確かに生きて届いている。
 それを最終話、もう一つの”勝負”として選び取ったことで、サドビのメインテーマは(めちゃくちゃ沢山、キャラやイベントの領分では描くべきものを遺しつつ)ちゃんと語られていたと思った。
 とてもありふれたやり方で、名前のない誰かの人生と心をアイドルのステージは変えていく。
 それは最終回用に特別にあつられられ、顔面も人生もキャラ性も主役貼るにふさわしい特別性に選ばれた人が、特別に踊るMOPと確かに繋がりながら、実は携帯越しにアイドルを蕩尽するその人生のつまらなさと根本を共有して、何かを生み出していけるのだ。
 ステージの外側、アイドルちゃんの悲喜劇に間近で涙する”愛すべき人たち”がいない場所にも……あるいは場所にこそ音楽は届かなければいけないし、届くべきだし、届いていけるのだと、最後静かに、すごく等身大の手応えで描いたことで、このお話が何を語りたかったかと、これから何を語っていくかを、僕は納得できた。
 そういう最終回の先に、まだまだ終わってねーお話の続きを絶対見たい気持ちはあるが、しかし確かにTRIGGERは復活を果たして自分たちの声を届け、アイナナはそれぞれの色と濁りを抱えながら、嵐の中に飛び出していくのだと、ありがたくここまでの三十話を飲み込めたこと。
 ここから続いていく、さらに長大重厚になっていくだろう人生のお話を期待できることを、僕はとても嬉しく思う。
 いいアニメだったし、いいアニメなので僕は続きがみたいです。