- ・はじめに
- ・ゆびさきと恋々:第5話『こたえ』
- ・ガールズバンドクライ:第11話『世界のまん中 』
- ・烏は主を選ばない:第11話『忠臣』
- ・響け! ユーフォニアム3:第13話『つながるメロディ』
- ・義妹生活:第9話『義妹 と 日記』
- ・小市民シリーズ:第10話『スイート・メモリー(後編)』
- ・NieR:Automata Ver1.1a:第24話『the [E]nd of YoRHa』
- ・ぷにるはかわいいスライム:第7話『Sweet Bitter Summer』
- ・ネガポジアングラー:第10話『常宏と貴明』
- ・ラブライブ! スーパースター!! 三期:第11話『スーパースター!!』
・はじめに
例年よりも少し柔らかく感じる気候の中、皆様せわしい日々をお過ごしのことと思います。
今年も一年アニメを見て感想を書いてきたものとして、恒例の話数10戦をやらせて頂きます。
変化していく時代の中で、それでも語るべき物語を決意と祈りを込めて形にしてくれている全ての人に感謝しつつ、今年も様々に素晴らしいアニメが見れて幸せでした。
集計はaninadoさんにやっていただいております。ありがとうございます
※ルール
・2023年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
四半期ごとに書いた、作品ごとのベストエピソードはこちらにあります。
蓬草春風に揺れる -2024年1月期アニメ 総評&ベストエピソード- - イマワノキワ
梅霖未だ音聞かず -2024年4月期アニメ 総評&ベストエピソード- - イマワノキワ
雷鳴未だ収まるを知らず -2024年7月期アニメ 総評&ベストエピソード- - イマワノキワ
寒気師走に追いつかず -2024年10月期アニメ 総評&ベストエピソード- - イマワノキワ
・ゆびさきと恋々:第5話『こたえ』
lastbreath.hatenablog.com
好き嫌いなくアニメを食べる方で、女性をメインターゲットとしているはずの少女漫画やボーイズラブなんかも、楽しく見られるのは自分の良いところだと思っている。
男子校の映画部を舞台に、少年たちの可愛げと純情が心地よく踊った”黄昏アウトフォーカス”なども素晴らしい作品であったが、”ゆびさきと恋々”はアニメ独自の解釈と表現が特に冴えていて、見ていて大変楽しいアニメであった。
聴覚障害を持つ主人公を弱者の位置に貶めるのではなく、当たり前に新生活にときめき、自分が抱える困難と向き合い、恋との出会いに胸高鳴らせる一人の人間として、力強く削り出す筆致は、同時に極めて美麗でもあった。
手話という言語を即座に習得し、主人公との距離をあっという間に縮めていく逸臣さんは、持ち前のコミュニケーション能力でまどろっこしいことなく年相応(以上にスマートでジェントルな)恋を推し進め、この5話でラブロマンスがたどり着くべき”こたえ”に至ってしまう。
話数だけ見れば早足なように見えて、余計な停滞やすれ違いを廃してどんどんお互いのことを分かり合い、だからこそもっと分かりたく成る恋の不思議を、1クール架けて丁寧に追いかけていく物語は、サブキャラクターの感情の絡み合いも含めて、見ていてとても爽快な青春絵巻だった。
手話表現に専属スタッフを置き、聴覚に困難を抱える人が生きている世界の手触りだとか、そこに適切に隣り合っていく手触りの心地よさなども、端正ながら適切な筆致でしっかり描かれて、その誠実が作品独自の魅力ともなっていた。
二人の心がいよいよ決定的に近づき、”こたえ”に近づいていくこのエピソードは、自己決定権を持つ大学生だからこそ真摯に向き合うべき性を、しっかり視野に視野に入れた微かなエロティシズムの炎と合わせて、作品の良いところがギュッと詰まった勝負回であった。
とにかく美術が良いアニメでもあって、運命と出会って華やぐ雪ちゃんの心に、世界がどんな風に見えているかをしっかり見せてくれる背景とドラマのシンクロも、この回は大変良い。
ここで捕まえた”答え”が残りの半分、どんな風に豊かに育っていくのか……告白の後の景色をとびきりのハッピーに彩って描いてくれたこと含めて、今年一番のロマンスだったと思う。
・ガールズバンドクライ:第11話『世界のまん中 』
東映アニメーションが独自のスタイルで挑む”若い女の子×音楽”ジャンルであり、”ラブライブ! サンシャイン!!”の酒井監督久々の監督作ということで、自分的に放送前から注目度が高かったこの作品。
一般的なセルルックともまた違う、カトゥーンテイストを大胆に取り入れた独自の画作りと呼吸は、ガールズバンドアニメの巨人たちが闊歩する業界に遅ればせながらやってきて、堂々己を誇示できるだけのパワフルさを持っていた。
加えてキラキラピカピカな青春とはかなりズレた、中退上等のパンクス共が音楽だけを頼りに世間にかじりつき、自分たちがどんな存在なのか、どこへ行くべきなのかを探って行く物語には、これまた独自の臭みと魅力が宿っていた。
異質性を武器に変え、先行作品がエグっていない角度から、ヤラれてみればドンピシャな一撃を力強く叩き込む。
相当な時間と資金を注ぎ込み、勝負するべきして勝負しにいった意欲作……にして問題作は、しっかりシーンの真ん中をゆすぶり、多くの支持を得た。
その歩みのどこを切り取るべきかは人によって様々だろうし、僕もクール終わりのベストエピソードには別の話数(第13話)を選出している。
クセの強いキャrカウターの顔が見えてくるエピソードや、作品の中核に何が在るのか理解る話数、あるいはぶつかってばかりだったクズどもが最高のレゾナンスを生み出すお話など、多彩な魅力がしっかりあるこのアニメ。
この話数を選ぶのはやはり、仁菜たちの成り上がり物語が頂点に達し、バンドとしての完成形に手が伸びる絶頂感が、ブッチギリに気持ちが良いからだ。
ダメダメな奇人変人が愛の街・川崎に集い、自分たちを駆り立ててくる世間の目と戦いながら己を吠え、突き刺すロックンロールの戦い。
そのベーシックな成長と発見と変化の物語が、しっかり分厚かったことが、ともすればストライクゾーンを外れていきそうな変化球を、ガールズバンドアニメの最前線に正しく叩き込む土台になっていたと思う。
この話数で描かれるステージング、そこから見える景色の清々しさと力強さは、確かにこのアニメを見ていてよかったなと思える強さに溢れていて、物語の到達点に相応しい。
そしてそれを全力でなげうって、身勝手ともいえる自分たちだけの道へと突っ走っていく残り二話を成り立たせるためには、ここで”てっぺん”行っておかないと行けないんだろうなぁ、と。
放送が終わった今は、奇妙な納得もある。
収まりよくバンド成り上がりストーリー、ダメ人間の自分発見伝にするならここがクライマックスなんだろうけども、このアニメにはそこで終わりたくない熱があり、やらなきゃいけない曲があり、それをラストナンバーに持っていくためには、この第11話でたどり着いておかなきゃいけない高みがあった。
あのハチャメチャな決着を、それでも「ガルクラらしーな」と思わせてくれるために、この最高のフェスをしっかり描ける腕力あってこその、”勝てる意欲作”であったと思う。
・烏は主を選ばない:第11話『忠臣』
”アニメ化”というのは常に難儀な仕事で、表現のルールも素材も形式も異なる隔たりを越えて、原作の持つエッセンスをどうにか絞り出し、形にして伝えなければボッコボコに叩かれてしまう。
本来二巻に分かれた物語を、桜色に閉ざされた華やかなハレムと、その外に広がる謀略の地平を並列させて”アニメ化”することを選んだこの作品は、相当ぶっ飛んだ挑戦をしたがゆえに、原作の味わいを見事に形にできたアニメだと思う。
僕はアニメで初めてこのお話に出会い、挑戦的ながら見ているものを引き込むアニメ独自の形式、それゆえに伝わってくる物語としての力強さに惹かれて、原作小説を読むようになった。
アニメと小説両方を見通してみると、独自の文化と政治をたっぷり盛り込んだ、山中異界のファンタジーをよくぞここまでアニメにした……という感慨もあり、自分を惹きつけたアニメならではの面白さを新たに感じることも出来、とても面白い体験だった。
こういう出会い方をさせてもらえるのも、原作付きアニメの面白いところであり、自分としてはそれは「原作そのまま」のアニメでは、中々生まれてこないものでもあろうな、と感じる。
原作ファンの燃え盛る愛あってこそ、メディアの垣根を超えて”アニメ化”にもこぎつけるわけだが、時にその忠節を裏切ってでもアニメだけの描き方、切り取り方をしなければ、伝わらないものが必ずでてきてしまう。
その上でどんな風にアニメを作っていくかが、関わるスタッフ独自の色合いであり、作品に向き合う姿勢の現れでもあるのだろう。
”烏は主を選ばない”はそんな難題に、極めて真摯かつ的確に自分だけの答えを刻んだと、感じられる作品だった。
そういうスタンスがもっとも色濃くでているのは、第一部の末尾を飾り、衝撃の真実が顕になる第13話ではなく、自分的にはこの話数である。
これはあせびを主人公に据えたシンデレラ・ロマンスが反転する大仕掛けを、雪哉主役の宮廷謀略劇が共に進むアニメ独自の形式によって、発現前にある程度以上見切れてしまっていたことで、最後の衝撃が薄れた……ということもあるのだろうけど。
それ以上に危機迫る山内を、冷静で苛烈な態度の奥に理想を秘めて救わんとする主に”忠義”を尽くし、青雲の志を果たそうとする主人公の行く末に広がっているものが、暗く深い闇かもしれないと示すこのエピソードの筆が、おどろおどろしくも鮮烈なことが大きい。
我欲を愛と思い込み、執着を忠義と言い換える人間の本質的な醜さが、主人公含めたありとあらゆる人を逃さず、理想郷に秘められた地獄の臭気を、来たるべき未来の予言として微かに薫らせる。
その残酷で嘘のない手つきが、張り詰めた美しさとともに展開するこのエピソードは、僕を文字で綴られた山内へいざなうのに十分な力を持っていた。
そういうパワーを宿せる”アニメ化”ってのは、やっぱり良いもんである。
・響け! ユーフォニアム3:第13話『つながるメロディ』
五年。
あまりに長く、それでいてあっという間……というのは、僕は折につれて失わてしまった人たちのことを、彼らが作り出すかもしれなかった可能性のことを、勝手に考える日々であった。
京都アニメーションのことが僕は好きで、それ以上に京都アニメーションは京都アニメーションのことを愛していて、だからこそあれだけの傷が自分たちをもぎ取っていったとしても、創作集団としての血を入れ替えながら、あるいは受け継ぎながら、作品を作り上げ世に問うことを諦めなかったのだろう。
その精髄はすでに幾度か世に問われているわけだが、”響け! ユーフォニアム”完結編となるこのシリーズには、新たな才能の芽吹きも、ここまで培われた表現の精髄も、今生きて奏でられる新しい音楽だからこその豊かさが、特別色濃く咲き誇っていた。
泣くほどに勝利を切望する北宇治イズム(あるいは黄前主義)にどうしても馴染めない異邦人たる真由を台風の目にして、今までよりもなお濃く強く渦を巻く青春の色合いは、時に残酷で、だからこそ鮮烈だった。
”ユーフォ”を心の底から思えばこそ、原作と大きく異なった展開を選び取ったその逸脱を、一つの必然として心の底から歓迎できるのは、アニメとしてのクオリティとしても、様々な難しさの中何を自分たちらしさとして表現するべきか、実はかなり制約をかけて描いているストイックさも、妥協なく挑んだ輝きがフィルムの向こう側に見えるからだろう。
長きにわたった物語に終止符を打ち、だからこそ続いていく音楽を響かせるために必要な、全身全霊の演奏。
それが悲願の全国金に挑む北宇治の子どもたちと重なり、創作物と現実の垣根を超えた豊かな音を奏でたからこそ、今共に歩んだ日々を思いながら、消えない傷を疼かせつつも「良いアニメだった……」と、心から言えるのだと思う。
そうするためには、やはり適切な儀礼と表現が必要であって。
この第13話、久美子の北宇治最後の演奏を観客席で見届けた人たちに、今は亡き面影を重ねたのは、創作物の独立を汚す逸脱と受け取られるかもしれない表現だ。
しかし感謝を込めて自分たちが受け継ぎ作り上げた夢の結晶を捧げ、弔花にして未来への約束とするその行為は、作品の外側に広がった厳しすぎる現実と、それを越えて生み出された素晴らしい作品にとって、一つの必然だと僕は感じた。
それを京都アニメーションが作り上げてきた”ユーフォ”の運命とするには、なにより本編で紡がれるドラマと音楽を徹底的に磨き上げ、研ぎ澄まし、新たな”ユーフォ”らしさを鋭く形にしなければなからなかっただろう。
そういう奇跡を、創作者たちは見事に成し遂げ、このフィナーレがある。
終わればこそ始まり、続いていく人生の不思議を、創作と現実のあわいを豊かに溶け合わせながら描ききってくれた奇跡の価値を、僕はこれからも噛み締めながら京アニ作品を見る。
素晴らしかったです。
・義妹生活:第9話『義妹 と 日記』
ぶっちゃけナメてたところから、心地よい一発を食らうのは心地よいものだ。
エアチェックリストにすら入っていなかった奇妙なライトノベル原作のアニメは、抑圧が効いた……ともすれば効きすぎたストイックな筆致でもって、「自分はこういう人間だ」という幼い思い込みに己を閉じ込め、それを開放する契機を心のどこかで待っている、子ども達の群像を見事に活写してきた。
カメラを一点に据え、ドキュメンタリーの手つきで奇妙な同居生活を切り取ってくる筆致が、内省的な作風と良く噛み合い、独自の魅力を醸し出している。
一般にウケる描き方ではないのだろうけど、しかし自分にはドンピシャで心地よく思える筆致には、「自分たちには、これじゃなきゃダメなんだ!」という静かな、そして確かな力みがあって……それをこそ”深夜アニメ”の魅力だと捉えている自分にとって、このアニメはとても心地よいものだった。
世界の形を悟ったつもりでいて、自分のことも他人のこともなーんも解ってない……だからこそ解りたいし解らなければいけない季節に、身を置いている少年と少女。
そのチャーミングな背伸びと身動ぎを、べらべら語るのではなく視聴者に読ませて解らせるような筆致は、主役たちの鬱屈や迷走をストレスではなく、見守りたくなる可愛げとして切り取ることに成功していた。
主役を貼る若造共を可愛いと思えるのなら、青春の物語は成功しているわけで、悠太くんと沙季ちゃんはその出会いから恋の芽生え、それが一つの美しい花を咲かすところまで、しっかり見守らせてもらった。
お話が行き着くべきと最初に期待されたポイントまで、しっかり走りきってくれたこと含めて、大変いいアニメだったと思う。
端正な情景描写の中に、鮮烈に心が動く瞬間をしっかり切り取ってくるメリハリが印象的だったこのアニメだが、悠太くんが己の恋心に築き、最初に張り巡らせた義妹との距離感が明確に壊れだすこのエピソードは、花火を用いて青春が揺れ動く瞬間を、見事に表現してきた。
ストイックで地味なだけでなく、勝負どころでしっかりロマンティックな表現を突き刺す腕力があればこそ、成立していた物語だとも思う。
そういう作品の強さを、話と感情が大きく動く勝負どころにしっかり活かせたシリーズ・マネジメントの妙味も合わせて、大変印象的な話数である。
”夏”なるものを表現する手つきが、いっとう優れていたアニメだったな……。
・小市民シリーズ:第10話『スイート・メモリー(後編)』
「アニメ化無理だろ……」が、初報を聴いた時の素直な感想だった。
米澤穂信の苦い部分を、爽やかな青春風味の表層に隠せばこそ一層色濃い、クセの強い原作。
日常の謎それ自体はあくまで、謎を通してしか他人と関われず、その関わり方も食うか食われるかの野獣の掟に染め上げてしまう、パット見人間風味の人非人共を、どうマスに向かって魅力的に描くのか。
作中のミステリを扱うのとはまた違う、初見共をダマし引き込み夢中にさせて、明かされる真実にメッタメタにされる好き放題を、それでもなお快楽と感じさせる創作的宙返りを、幾度も要求されるだろう困難を、ラパントラックが乗りこなせるのか……正直疑問であった。
だが、彼らはやり遂げた。
萌え萌えっぷりがあまりに猛烈すぎる、ナイスデザイン極まる小山内さんを筆頭に、なんかいい感じの(それこそ”氷菓”みたいな!)青春を見事に偽装し、的確なヒントを随所に埋め込みつつも、変わり者二人がお互いをかけがえなく思い合い、繋がっていく人間的青春ミステリという、心地よい餌にかぶりつかせた。
このノセ方と引き込み方が、結局作品の核心を裏切った大嘘でしかないことにこの作品は極めて自覚的で、推理シーンで唐突に異界にぶっ飛ぶバロックな画面構成とか、随所に滲む主役共の人生ナメてる感とか、変わりたいと願いつつ変われないどうしようもなさとか、羊の皮を狼に被せる技量と、青春の奥に地獄が滲んでいる気配のバラン感覚は極めて見事だった。
幻想文学めいた飛び方をする推理シーンを活かして、ともすれば退屈に流れていく青春が弾んで楽しいものとなっていたのも、この一期最終話で暴かれる真実に綺麗に初見をハメる誘導……であると同時に、その爽やかな楽しさは二人にとって、けして嘘ではなかった。
視聴者にとって、それが本当なのだと思いたい嘘であったのと同じくらい。
主役コンビが別離して終わりという、二期なかったら一体どうなってんのか分かりゃしねぇ大博打を成立させるために、小山内さんの印象は「怖いところもあるけど、可憐で可愛い美少女」にまとめられ、知恵で他人にマウント取るのが大好きな探偵気取りのヤダ味も、描写を噛み締めてみなきゃ悪目立ちしない程度に、精妙に薄められていた。
逆にいえば、ヤバさもヤダ味もこの破綻に至るまでの全てに巧妙に埋め込まれ、後々思い出してみれば必然の決着だったのだと、この苦みを飲み干すしかない構成が作り上げられていたわけだが。
”日常の謎”をある種の煙幕として使い、探偵役のどうしようもなさを読み解く大きなミステリを10話の間にしっかり機能させるという、創作の難行を見事にやりきればこそ成立する、深く突き刺さる裏切りの痛み、必然の納得。
ミステリというジャンルだからこそ成立するドラマが、新たな展開と解決を孕んでこのあと、秋と冬に綴られていく。
小市民を標榜する獣達が、自分たちの青春にどういう決着をつけるのか……この優れたアニメがそれを、どういう色彩と画角で描くのか。
残酷で嘘のないこの幕引きが、その先に展開される物語への期待を最高に高めてくれるありがたさも含めて、素晴らしい最終回であり、折り返し点であった。
・NieR:Automata Ver1.1a:第24話『the [E]nd of YoRHa』
物語には、引力があると思っている。
それは外側から物語を読む観客にだけでなく、物語自体にも強く働く力であり、希望の方向へと働いて高く飛ばすか、絶望の方向に働いて泥まみれの地べたへと引っ張っていくか、どちらにしろ選び取った語り口は自然と、作品の行く末を独自に定めていく。
それに従い、利用し、あるいは反発して完結まで飛ぶまでの軌跡が、つまりは物語それ自体になっていくし、作品内部に漂う引力との戦いがどれだけ真剣で血まみれであるかが、観客席から作品の内側へと引きずり込む、パワーを生み出しもするのだろう。
ニーアはそういう引力に極めて真摯で、情け容赦なく人間存在の限界、生きることのどうしようもなさに向き合った、美しくも見事なSF寓話だった。
遠い未来、人間もその宿敵たるエイリアンも死に絶えたヒトなき世界で、ヒトを模しているがゆえにヒトではなく、だからこそ誰よりも人間臭いアンドロイドたちは、戦いだけをプログラムされて永遠の闘争を繰り返している。
そこから抜け出す手立てはなく、愛とか絆とかそういう人間に大事なものは、ヒトモドキであるがゆえにプログラム化された狂気に赤く汚されて、何もかも灰燼に帰していく。
第1クール、分かりやすく”ラスボス”を倒して上向きの引力に乗っかったように見えて、怒涛の勢いで全てがぶっ壊れていくスピード感と破滅の苛烈さが、作品を強烈に下向きに引っ張っての第2クール。
命令を下す基地も、戦う意味を与えてくれる秩序も、主人公として定められた戦士の命すらがぶち壊されていく中で、愛ゆえに狂い、絆ゆえに苦しむ人形たちはどこにたどり着くのか。
全く安心できない話運びは、しかし人形たちの生きた証を玩弄する悪趣味からは程遠く、不思議な美しさを世界に宿しながら、見ていたくないのだけど目を離せない、魅力的な矛盾を駆動させてくれた。
「もうダメかも……」という気持ちで迎えた最終回、死と愛に呪われ世界を閉ざした宿敵を打ち破って、あまりにも重たいものを背負わされ続けた戦士は物語を決着させる。
どれだけ残酷な定めが、出口のない苦しみがヒトを捕らえるとしても、それを振りちぎって手渡されるものが必ずあり、未来を切り開くのだと、24話かけて下向きの引力と戦ってきた物語が、それ故の感慨と説得力で高く飛ぶ。
その瞬間ほど、気持ちいいものはない。
世界は生きるに足りるだけの希望に満ちているのだと、当たり前だからこそ力強いニヒリズムに真摯に向き合い、だからこそ絶望や苦しみや理不尽の強さを無視できず、過酷に描くことから逃げられない。
そんな作家の業をも振りちぎって、新たな世界へと戦士たちをたどり着かせた物語の輝きは、描いてきた闇があまりに深く濃いからこそ、軽くてキレイなお題目ではなく、命懸けで描ききった真実として届く。
そういう、物語が持つ強さを体現してくれる最終回であり、長きに渡る戦いの決着であった。
・ぷにるはかわいいスライム:第7話『Sweet Bitter Summer』
いわゆる”神回”が好きじゃない。
アニメは作画だけで出来ているわけじゃないし、クオリティにしても作風にしても異物としてシリーズの中から飛び出しているエピソードは、作品全体として見た時に調和を欠き、結果としてそのアニメを見通す楽しさを傷つける……気がする。
んじゃあなんで、あからさまに気合が別格に入ってるこのエピソードを選ぶのかという話にもなってくるわけだが、いくつか理由はある。
一つはこのエピソードにあふれているアイデアや野心、アバンギャルドな表現を巧く包みこんで悪目立ちさせないくらい、ぷにるアニメはトータルでのクオリティ、原作の良いところをアニメなりに料理し表現し直そうとする気概がしっかり保たれていた。
そういう作品だからこそ、矢継ぎ早に新しい表現が飛び出してきて、とてもワクワクするこの話数が出てきた感じもある。
もう一つはキレの良い演出によって別々の原作を一つの話数にまとめ上げることで、このお話が見据えている作品の舞台……大人と子どもの真ん中に立っている思春期の空気が、独自の存在感を宿して際立つことだ。
ホビーでありながら意志を宿し自由なぷにると、”べき”に縛られて自分を人生のモブにしてしまっているコタローの、ありふれているようでいて特別な夏休み。
振り返ればその全てが奇跡のようだったと、必ず思うだろう特別さと、その渦中にいる当事者にとっては当たり前な日常が重なり合う魔法のような時間が、作画と演出の特別さによって際立ち、話数の垣根を超えて作品全体へ滲んでいる。
この優れたジュブナイルにおいて、ぷにる達はこういう匂いのある時間を生きて、自分たちがどんな存在であるかを見つけ、どこかへ巣立っていくわけで、この特別な話数に宿った不思議な空気は、この話数だけに独占されない普遍的なものだ。
そういう横幅の広さを、怪物的なクオリティが突破を果たすことで獲得できているのは、なかなか興味深い相転移である。
そしてここで鮮烈に描かれているコタロー達の夏は、他の話数でも別の形で示されている透明感と切なさにしっかり足場を置いていて、きわめてぷにるっぽい。
作品の核となるものをしっかり捉え、主役たちだけでなく彼らを取り巻く人たちの面白さや優しさも見事に削り出したこのエピソードは、特別な手触りでありながらこのアニメのどこが面白いのか、すごく普通のスタンスで届けてくれる。
そういう作品の良さを凝集してくれるエピソードは、やっぱり良いものだ。
・ネガポジアングラー:第10話『常宏と貴明』
振り返ってみればSNS越し、顔のないマスの意見……あるいは意見未満の雰囲気に流されるような年だった。
もともと”みんな”に混じれないからアニオタやっているような、古い世代そのものなわけだけども、色んな人の声が否応なく耳に飛び込んできて、業界が全体的に活況を見せている最近は、特に流れてくる音にざらついたノイズを感じてしまう。
年を取った、ということだろう。
老いたなら老いたなりの応対というものがあるはずで、さてどうしたものかと悩みながら、頭の中に飛び込んでくるマスなノイズにワケがわからなくなって立ち止まったりもしたわけだが、そういう迷妄をスパッと開いてくれたのが、この作品だった。
とにかく人生後ろ向き、目を瞑って逃げて逃げて逃げまくるネガティブの極みな主人公は、好感を抱ける要素ナシで悩み多き物語を突っ走り、他人が差し出してくれる得難い助けの意味を解らぬまま、釣りと出会う。
釣り糸垂らして獲物を待つ釣りは作品の主題であり、じっくり力を入れて丁寧に描かれるわけだが、そこでド派手な事件が起きるでなし、ダメダメな主人公はダメダメなまんま、日々を過ごし人と交わり、ちょっとずつ変わっていく。
そのどっしり腰を落とし、テーマに選んだものと心中する覚悟で、丁寧にマニアックに掘り下げ削り出していく、いかにも”深夜アニメ”な姿勢が、ぴったりと肌に合った。
こういうアニメが面白いから、アニメを視て感想を書き続けているんだなと思った。
この作品は静かだからこそ雄弁なアニメで、仕掛けをキャストする所作の一つ、水中の魚を追いかける時間の一つに、どっしり色んなモノを込めて読ませる。
コスパタイパが喧伝される時代にしてはゆったりとしすぎ、視聴者に読解を求めすぎるが、しかし確かに届く鮮明な演出意識をもって、見る側を信じて描写を積み上げてくれる作品だった。
その筆致が激しく、そして鮮烈に炸裂するのが最終章開幕を告げるこの話数で、これまで作品の柱になってきた演出技法がフル回転し、読み甲斐と牽引力のある勝負回となっていた。
目をつぶり逃げてばかりいた主人公が感情を撃発させ、追いすがりしがみつく価値のある相手を見つけられたことが、衝突と別れに繋がり残り二話、一体どのような決着を見せるのかという興味を掻き立てるという、ドラマ的役割もしっかり果たしていて、自分が見たいと思っていた”深夜アニメ”の手触りを、大変いいタイミングで手渡してもらえる話数だった。
・ラブライブ! スーパースター!! 三期:第11話『スーパースター!!』
ラブライブ! も無印のアニメ放送開始から11年、一過性のブームではなく一つのジャンル……あるいは文化として、大きく育った感じがある。
長く続いたからこその動脈硬化や構造疲労は確かにあり、スーパースター!! はそこをどう突破するのか、オフィシャルゆえの重みと気概でもって、かなり意識的かつ意欲的に新たなラブライブ!を模索し続けてきたと思う。
二年の時を開けての三期は特に、そういうラブライブ! を刷新する意識が強く、今までシリーズの伝統なり”らしさ”で受け継がれてきたものをかなり大胆に切り飛ばし、自分たちが描ききれていなかった要素を洗い出し直し、三年分積み上がったキャラクターの成長に嘘なく、全てを語りきって長い物語を終わらせようとする意識が強かった。
僕は終わるべくして終わる物語が好きなので、新たに”外部”を作らず、二年目では最悪の嫌われ者として描いてしまったウィーン・マルガレーテがLiella!に間近な(そして唯一の)”外部”として機能する構造の下、彼女の変遷を通じてラブライブ! らしさ、スクールアイドルであることの意味を改めて描き直すスタートには、溜まった不満をひっくり返すだけの期待を抱かされた。
果たしてそれは裏切られず、二期までで不満だったところを徹底的に描き直しほじくり返されながら、三期は勝ち負けをあまり視野に入れず、スルリとラブライブ本戦に飛び込んでいった。
既に”てっぺん”を掴んでしまった後の三期、優勝に向けてひた走る今まで通りの熱量では走りきれない作劇事情が、改めて自分たちの足跡を見つめ直し、何を生み出してきたのかを確認し削り出していく、自作批評としての色合いが濃い作風を生んだ感じもある。
これまでの十数年、自分たちは何を作り出しどこへやってきたのか。
三期全体を貫くそんな視線は、サブタイトルと作中楽曲の両面で”スーパースター!!”を回収するこの話数で、至るべき高みへとたどり着く。
それはLiella!が既に優勝を果たし、勝利の高みからの景色を知っていればこそ語れる総括の歌であり、頼もしさを増した先輩たちとは大違いな、スーパースターではありえない自分たちをそれでも綺羅星と誇った二年生の、プライドと希望を込めた曲でもある。
澁谷かのんという特別な才能、他人の人生に否応なく影響を与えるカリスマを主人公に据え、「どこにでもいる普通の女の子」を主役から外したからこそ生まれる物語が、一体どんなものだったのか。
澁谷かのん自身をセンターに据えて描く、11人のLiella!最後の楽曲はアニメ全体を総括すると同時に、ラブライブ! というコンテンツが沢山の人を巻き込み、現実のステージや様々な物語で作り上げてきた物語が悪いものじゃなかったと、全力で寿いでもいた。
二次元のアニメと三次元の現実、2つの次元で展開する物語を重ね合わせ響かせていく越境の豊かさは、ラブライブの強みの一つであると思うけども、前人未到の連覇がかかった局面で提出される楽曲が、そういう極めてラブライブ! らしい広さと豊かさをもって、ラブライブが好きだった僕たちをも肯定し、高く飛び上がらせてくれるような曲だったことには、大きな満足と感動を受け取った。
そういう視聴者の自己投影以上に、手のかかる後輩をより自分らしくいられる場所に巣立たせ、実りある進路を選び取って進み出してなお、結構暗い認識でもって自分と世界を視ている澁谷かのんが、己のラブライブ! を走り切ることでどこにたどり着いたのか、かなりガッチリ幻想的な描写でもって答えを出していたのが、印象的な回でもある。
三期のかのんちゃんは大変立派で頼もしく、無名の新設校に誇れる実績を刻み込んだ偉業と合わせて、端から見てりゃ文句なしのスーパースターである。
しかしそういう自分の外側から隔たれた、等身大な人間の心のなかでは、未だ冷たい雨が振っていて、それでも虹の光が自分を解き放ってくれる輝きを、夢見待ち望んでいいる。
そんな救済が……澁谷かのんが本当に歌うべき歌が、自分たちが既に果たした歩みと結びつきの中にこそあったのだと、かのんちゃんはラブライブ! 決勝直前にようやく無言で気づく。
そんな内省的で個人的な歩みが、賑やかで楽しく可愛らしい、いかにも”ラブライブ!”な青春と隣り合い、作品を支える柱となって走っていたことを、公式サイドからしっかり手渡してもらえるエピソードだったのは、大変嬉しかった。
なぜなら僕もそういう、自身でしっとり重たい内側の視線あってこその”ラブライブ!”だと思っていて、派手で明るいだけじゃ終わらない荷物を背負い、詩と歌によって高く羽ばたかせればこそ生まれる情感にこそ、シリーズの魅力があると思っているからだ。
そういう暗い手触りを、ラブライブ! は忘れていなかったし、これからも大事に続いていくだろう。
これまでの10年、これからの10年。
ラブライブ! はどこから来てどこへ行くのか、他ならぬ”ラブライブ!”自身が的確で鮮烈な答えを描ききったこと。
それが”スーパースター!!”という楽曲に、これ以上ないほど現れていることが、歌と踊りで青春を駆け抜けていく物語が示すべき答えとして、何よりも良かった。
舞台の上で、自分たちの心をより広い場所へ、より強く届けるために、”アイドル”を選んだ少女たちの物語なのだから、答えが歌の中にあるのは極めて正しい。
その正しさが、ラブライブが好きで、だから嫌いになりかけていた自分をも抱きとめてくれたような気がしたから、僕はこの話数が好きだ。
ありがとう”Liella!”、ありがとう”ラブライブ! スーパースター!!”
素晴らしい完結であり、終わればこそ新たに始まり、未来へ続いていく歌でした。